最近の 大工集団 欅
以前に山田晴通著【「バレンタイン・チョコレートはどこからきたのか」東京経済大学人文自然科学論集-124 】という論文を読んだのですが・・・。
内容は全く覚えていません。
ただ一つ、「バレンタイン(valentine)」の意味には「恋人」もあると記してあったことだけ覚えています。
何故その様な論文を読んだのか、理由さえも覚えていません。
それほど私にはバレンタインデーが縁遠いのでしょう。
2012年3月26日 |
今日は少し政治的なことを書きたいと思います。
東日本大震災、こうして遠く離れたところに住んでいるとイマイチ実感がないのですが、それでも早く復興して頂きたい。
復興が進まない背景には幾つもの理由があるのでしょうが、被災地再生を妨げている象徴的な事例が膨大な量の未処理のがれきです。
未曾有の大規模災害とはいえ、丸1年がすぎて全体で2250万㌧強のがれきの内、6%しか処理されていないそうです。
福島県のがれきは県内で処理し、放射能汚染の心配のない岩手、宮城両県の分のみ、全国で分担してほしいと要請しても、現段階で引き受ける都道府県は青森と山形の両県、それに東京都を除いて他にありません。
復興にはがれき処理が急がれるはずです。
昨日は岩手、宮城両県ががれきの受け入れを表明しました。
がれき処理の引き受けは、東京都と山形県、青森県の一部の自治体にとどまっていましたが、震災から1年を迎え、ようやく広域処理に向けた取り組みが、にわかに活発になったようです。
復興の妨げとなる大量のがれきを一日でも早く撤去するため、広域処理での連携をさらに拡大していただきたい。
世論調査ではおよそ6割の人々が引き受けに前向きとのアンケート調査がありました。
それがなぜ二進も三進もいかないのでしょうか。
民主党及び担当大臣の力不足ゆえではないか。
政治が決断し、実行出来る態勢を作ってこそ、日本復興は進みます。
政治に求められるのはそうした決断力です。
余談になりますが、危機管理の第一人者で内閣安全保障室初代室長を務めた佐々淳行氏が著作の中で、原発事故の対応も含めた日本国の原子力行政の実態を指摘していました。
「1979年9月1日、原子力船『むつ』の放射能漏れ事故が発生したとき、私は警察庁警備課長でした。当時は原子力船が動けば放射能を撒き散らすという反対論が強く、『むつ』入港阻止のために日本全国から反対派が集まり騒然としていました」
そうした中、「むつ」は青森県尻屋岬東方800㌔の海上で出力試験の最中、微量の放射能漏れを起こした。
その量を佐々氏は「レントゲン1回分以下」と形容、「産経新聞」は「腕時計の夜光塗料程度の微弱」さだったと描写する。
つまり、問題視する必要もない微量な漏れだったのです。
ガイガーカウンターで計測すると、むつの原子炉周辺の放射能レベルは0.1ミリシーベルト以下だったそうです。
警備課長として当時の生々しい現場を体験した佐々氏は、この微量の放射能漏れを日本の原子力行政の悲劇にしたのが政治だったと憤る。
「関係者はおよそ皆、責任逃れのために説明を二転三転させました。漏れた放射能レベルは問題ないほど低く、海洋汚染の心配はなかったのですから、政治はそのことを国民にも漁業関係者にもよくよく説明しなければならなかったのです。しかし、反対勢力の感情的反発の前に政治はひたすら対立を回避し、妥協し、最後はバラ撒きに走ったのです」
佐々氏は当時、関係閣僚懇談会に連なっていたが、発言が許される立場ではなかった。
しかし、たまりかねて提言したという。
漁業関係者、社会党をはじめとする野党が反対しているが、自分たち警察が原子力行政とエネルギー政策の将来のために憎まれ役になって「むつ」の寄港に向けて準備を整えることも構わない、政府は漏れた放射能レベルの安全性を説明して原子力船「むつ」のプロジェクトを推進すると宣言してほしいと。
だが、佐々氏は、「黙っておれ」と官房副長官から一喝され、金丸氏主導の20億円バラ撒きが決まった。
「むつ」は廃船となり、むつ公団は解散、むつ港も埋め立てられました。
「説明すべきことも説明出来ない。原子力産業の未来も潰してしまいかねない。こんな腰抜けで自民党はどうするのか、と本当に思いました」と佐々氏。
こうして歴代自民党政権は逃げの一手でその場しのぎの解決を重ねたのです。
国家の危機管理体制強化のために正攻法で闘うことをしなかった。
社会党の村山政権も同様でした。
皆さんも覚えておいでるでしょう、95年1月、阪神・淡路大震災が起き、3月には地下鉄サリン事件が起きました。
自衛隊、警察、消防に加え、毒ガス、細菌、放射能などの専門家が一致団結して対処しなければならないとき、わが国の法体系は首相に権限を集中して事に当たる仕組みになっていませんでした。
そうした法や制度の見直しが村山首相に提言されたにも拘わらず、「強権的なイメージ」になるのを恐れて、村山首相は無策を通したのです。
その後、橋本龍太郎首相の下で行政改革が行われました。
1府22省庁は1府12省庁となり、原子力は歪な形で分離されたのです。
つまり、研究、学問としての原子力は科学技術庁、よって文部科学省の所管となり、エネルギー問題としての原子力発電は経済産業省所管となりました。
原子力を所管すべきは本来、軍なのですが、橋本内閣も強権イメージを恐れたのです。
原子力を所管すべきは軍と書きましたが、『そんなバカな!』と思われる人は原子力を知らないのです。
どの国を見ても、原発を守っているのは軍隊です。
原子力の怖さを知っているから軍なのです。
取り締まり権限と万一の場合に強制力を執行出来るのは軍しかないのですから。
しかし、危機管理の観点を完全に無視して、これを経産省や文科省の下に置いた日本は、結果として危機管理能力は殆どゼロという状況に陥って、今日に至ったのです。
つまり、日本の軍アレルギーは自国の首を絞めているのです。
軍は必要悪なのです。
与党も野党も幾度かの日本国存亡の危機から何も学んでこなかったのです。
今回の大震災に当たって民主党は議事録さえ作成していなかった。
どこで何を間違えたかを考えようともしていなかったということです。
細野豪志環境大臣兼原発事故収束・再発防止担当大臣は訴えた。
「がれきの処理能力は政府にはありません。地方自治体などに要請するしかないのです。自治体に指示出来るよう法改正するにも、政府の焼却施設を作るにも2年はかかります」
確かにその通りなのです。
しかし、なぜ、日本国政府にそうした権限がないと細野大臣は考えているのでしょうか。
政府自身の焼却炉というが、日本列島にはすでに全世界の焼却炉のナント75%もが集中しているのです。
新たな焼却施設よりも、既存の施設の利用こそ考えるべきです。
つまり、地方自治体に、要請を超えて指示する権限を政府に与える法改正が必要なのです。
本来なら、全ての自治体が三都県のように進んで引き受けるのがよいと誰しも思うだろう。
だが、多数が受け入れを承認しても、少数の声高の反対者が阻止するとすれば、その反対の壁を乗り越える権限を政府が行使出来なくてはならない。
処理を頼んでいるのは、安全ながれきなのです。
法改正に必要な議席は、民主党は衆議院で確保済みです。
参議院は野党が多数を占めるが、同件について反対するはずもないでしょう。
昨日、がれきの受け入れを北橋健治北九州市長に要請するため、同市を細野大臣が訪問しました。
市長との会談後、細野大臣自らが街頭で行ったがれき処理の安全PR活動は、受け入れに反対する市民らの抗議で混乱したそうです。
「九州を汚さないで」「北九州で説明会を開いてないぞ」・・・
彼らは、自分さえよければ良いのか?
もう一度書きます、処理を頼んでいるのは、安全ながれきなのです。
細野大臣は正午ごろからJR小倉駅前でチラシ配布を開始。
ところが、約15分後、プラカードを掲げて怒号を飛ばす反対派の市民ら数人に取り囲まれて中断。
細野大臣は予定していた1時間のうち約30分を反対派市民との話し合いに費やした。
市民側が「千葉県から汚染を恐れて避難した人もいる」「がれき全てを検査するのは不可能」などと訴えると、細野大臣は「被災者は元の土地で暮らしたいが、がれきが障害になっている。不安にさせたことは申し訳ないが、千葉県は安全。冷静に考えて」などと応じたそうです。
政府に求められるのは、情報を公開し、がれきの安全性を周知させることです。
そうすれば反対派市民も納得してくれるはずです。
東日本大震災で発生したがれきの処理をめぐり、大阪市の橋下徹市長は22日、市議会民生保健委員会で、がれきの受け入れに慎重な意見が委員から相次いだことを受け、「湾岸戦争のときに金だけ出して世界からばかにされたときの屈辱を思い出す。こんな情けない日本は子孫に残したくない」と痛烈に批判したそうです。
全くその通りだと思います。
委員会では 大阪府内の市町村長で唯一、受け入れに前向きな橋下市長に対し、市民の間に不安の声が上がっているとして、委員から「放射能のリスクが回避されないかぎり受け入れることはできない」などと否定的な意見が続出した。
これに対し、橋下市長は「普通に考えれば府の(放射線量の)受け入れ基準は許容範囲」とした上で、「憲法論議するつもりはないが、世界では人命を救うために自らの命を落としてでも困難に立ち向かっている。日本だけがそれをやらない。震災直後に絆とか支え合いと言っていたのは何だったのか」と訴えた。
もう一度書きます、処理を頼んでいるのは、安全ながれきなのです。
がれきは地元での処理が出来ればそれに越したことはありません。
陸前高田の市長は、仮設炉の基準緩和を要求しました。
被災自治体での瓦礫処理を行えば、雇用の促進にもなるし、何より、当事者におっては処理に生きがいを見いだせるのではと誰でも思います。
仮設炉の基準を緩和してほしいと県に相談しても門前払いだったとか。
市内に瓦礫処理専門のプラントを作れば、自分達の判断で今の何倍ものスピードで処理出来ると言っているのにです。
補助金が26年までなので、早く、すべてを処理する必要もあります。
緊急時の対応をすべきと思います。
また、岩手県岩泉町の伊達勝身町長が震災瓦礫問題について、「現場からは納得できないことが多々ある。がれき処理もそうだ。あと2年で片付けるという政府の公約が危ぶまれているというが、無理して早く片付けなくてはいけないんだろうか。山にしておいて10年、20年かけて片付けた方が地元に金が落ち、雇用も発生する。」と発言されました。
「もともと使ってない土地がいっぱいあり、処理されなくても困らないのに、税金を青天井に使って全国に運び出す必要がどこにあるのか。」と民主党政権が推進する瓦礫広域処理の方針を批判しました。
早く復興して欲しい。
みんな日本人なのだから知恵を出して協力して欲しい。
どこかオーディオの調整が狂ったに違いないと思いアレコレと確認したところ・・・、ありました。
ウーファーに用いているパワー・アンプMcIntosh:C2500の左側出力のボリュームが何者かによりほんの少しいじられていたのです。
犯人は直ぐに分かりました、猫の十月です。
こんな事は初めてでした。
こう書くと、『サックスの音色の違いを聞き分けられるのか?』とお思いでしょうが、これは至極当たり前で簡単なのです。
テレビを見ていなくても、話しているタレントが誰か分かるのと同じです。
聴いていると、Sonny RollinsとStan Getzのサックスの音色の違い、またMiles DavisとFreddie Hubbardのトランペットの音色が違うことに気付きます。
サックスのプレイヤーは、音色を決めるリードを厳選します。
自分でリードを気に入るまで削る人も多いのです。
それ程に、ジャズメンは自分の音色を持とうとします。
ギタリストでも、自分のチューニングを秘密にしている人が多く居ます。
ピアニストでもSteinway Concert Grandというピアノでしか録音しないというプレイヤーもいます。
強奏であれ、弱音であれ、「Sonny Rollinsらしい音」が出てくれないと、「どっか調子が悪いなぁ」とオーディオシステムを撫でたり、さすったりすることになります。
その人らしくないので、どうも音楽に浸れない、という状態はマズイ。
音色。
これは、誰もが気になります。
楽器には、金管・木管、鍵盤、弦、打楽器と色んな音色がありますし、またそれに肉声も加わります。
音楽は、楽器や声を通じた音ですから、元の音が忠実に再生されることが必要です。
今、何という楽器が鳴っているのか、さらにはテナーバトルの時にどっちらのプレイヤーが吹いているのか、それが聴き分けられなければ、興ざめです。
中には、「ピアノはBösendorferの音がしている」とか、「サックスはSelmerの音だね」とか、言われる人もいます。
此処までになればマニアです。
それぞれの楽器の音は、個々の人が経験で心得ていますから、それと限りなく似た音が出るほうが、幸せというものでしょう。
Sonny RollinsはSonny Rollinsなのであって、Sonny Rollins以外の誰でもないのですから。
音色、ナントモ曲者ですね。
昨夜、家でソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)の「テナー・マッドレス(TENOR MADNESS)」を聴いたのですが、どうもおかしい。
Sonny RollinsではなくてConny Rollinsなのです。
それは冗談ですが、ソニー・ロリンズのサックスの音色とは違うのです。
もう何十回と聴いたアルバムですし、ソニー・ロリンズは私のジャズの師ですから、彼のサックスの音色は私の頭にインプットされています。
ですから、彼のサックスの音色の違いに気づいたのです。
ソニー・クラークのピアノが好きで、彼のレコードをよくかけるのですが、有名な Blue Note レーベルの 「Sonny Clark Trio」 はあまり好きではなかった。
アップテンポの曲が多すぎるのです。
全6曲のうち、スローテンポの曲は2曲だけです。
フィリー・ジョー・ジョーンズ("Philly" Joe Jones)のドラムが騒がしすぎるのです。
フィリーがスティックを多用している。
ブラシを使っているのは Softly As In A Morning Sunrise (邦題「朝日のようにさわやかに」)だけです。
いちおうピアニストが主役の盤なんだから、もうちょっと気を使ってほしいよな、と思っていました。
でも、最近、Timeレーベルの 「Sonny Clark Trio」を愛聴するようになって、Blue Note の 「Sonny Clark Trio」 に対する見方が変わりました。
Blue Note 盤とTime盤の違いは何か。
Time盤はオリジナル曲が多く、アップテンポの曲が多い。
Blue Note盤はスタンダードナンバーが多いく、アップテンポの曲が多い。
つまり、両者の違いで目立つのがスタンダード中心か、オリジナル中心かということです。
ソニー・クラークは作曲の名手でした。
Blue Minor しかり、Minor Meeting しかり、Nicaしかり。
ところが、Blue Note盤には彼の曲がひとつもない。これはひどい。
でも、A面1曲目の Be-Bop によくよく耳を傾けてみると、「おっ、けっこういいな」と思うようになりました。
ソニー・クラークのオリジナルではないけれど、彼の得意とするマイナーなフレーズが頻繁に出てきます。
このBlue Note盤は一般的にはB面2曲目の「朝日のようにさわやかに」の名演を聴ける盤として知られていて、それは確かにそのとおりなのですが、それだけじゃなかった。
本当の主役はフィリー・ジョー・ジョーンズかもしれません。
しかし、こうも思うのてです、このBlue Note盤をフィリー・ジョー・ジョーンズのやかましいドラムを思いっきり堪能できる盤として聴いてもいいのではないかと。
ピアニストが名義になっている盤だからといって、ピアノばかりに耳をそばだてていてもおもしろくないし、その必要もない。
逆に、Time盤はソニー・クラークのピアノに集中して聴くことが多い。
ひょっとして、Blue Note盤はドラムのフィリー・ジョー・ジョーンズの大音量、爆発系ドラムを徹底的に聴くことがソニー・クラークの意図していたことなのかもしれません。
録音されて55年も経ってこの様な解釈をされるとはソニー・クラークも思っていなかったかもしれません。
それとも、あの世で『55年も経ってやっと理解してくれる人がいた』と喜んでくれているでしょうか。
人類はこれまでにいったい何枚のレコードを作ったのでしょう。
きっと、と~んでもない数でしょうね。
1億、2億という数ではないはずです。
せめてジャズだけでも枚数を知りたい。
そんな中でまぎらわしいレコードもあります。
例えば、ソニー・クラーク(Sonny Clark)の 「Sonny Clark Trio」 です。
「Sonny Clark Trio」 という全く同じ題名のレコードが Blue Note レーベル(上)にもTimeレーベル(下)にもあるのです。
両者の内容は全く別物なのに、タイトルが同じなのです。
うーん、まぎらわしい。
ここでは便宜的に「Blue Note盤」、「Time盤」と呼んで区別することにします。
アストゥリアス皇太子基金は創設約30年と歴史は浅いが、過去には国境なき医師団など国際平和に貢献した個人や団体に平和部門賞を授与しており、欧州ではノーベル賞に匹敵する権威ある賞として知られているそうです。
だが、昨年10月21日の授賞式に原発労働者の姿は一人もありませんでした。
東日本大震災による大津波でメルトダウン(炉心溶融)を起こした原子炉は、冷温停止の達成目標が年内に前倒しされたとはいえ、今も「誰か」が放射線に身をさらさなければ、制御できないのです。
厚生労働省によると、福島第1原発では毎日約2千人が働き、フクシマの英雄たちは、東京電力の社員と下請け労働者だけで、10月の段階で累計1万9237人にのぼっているそうです。
一方でこんな現実もあります。
3~6月に作業に当たった下請け労働者のうち、341人が一時、所在不明となったのです。
「推測にはなるが、労働者たちが過酷さや恐怖のあまり逃げ出した可能性がある」
原発労働に詳しい関西労働者安全センターの事務局次長、片岡明彦氏はこう指摘する。
無名の労働者たちによる献身という美談で、済まされる話なのでしょうか。
真夏の作業。
高線量の放射線から原発労働者の身を守った防護服は、代わりに42人を熱中症にしました。
防護服は、微細なポリエチレン繊維を幾層にも重ねた特殊シートが素材で、空気をほとんど通さないそうです。
場合によっては厚手の上着や雨がっぱを上から着込み、酸素ボンベ付きの人工呼吸器を背負うこともある。
暑さに加えて息苦しさも追い打ちをかける。
顔面を覆う防護マスクには、放射性物質を吸着する活性炭入りのフィルターが組み込まれているためです。
福島第1を含む原発3カ所で約30年前、下請け労働を体験したフリーライターの堀江邦夫氏は、著書「原発ジプシー」(現代書館)の中で、その過酷さをこうつづる。
「ごく自然に息をすることさえできない、こんな生理的・精神的な苦痛を伴う労働が他にあるだろうか」
静岡県御前崎市の配管工、大角信勝さんは5月14日、汚染水処理施設の配管設置工事にあたっていたさなか、心筋梗塞で死亡した。
雇い主である建設業者の説明は、こうだ。
深夜に宿舎を出発し、午前3時半、前線基地である「Jヴィレッジ」で防護服に着替えた。
その後、約20キロ離れた福島第1原発で朝礼を受け、6時から作業を開始。
重さ約50キロの機械を同僚と2人で運ぶ途中、体調不良を訴え意識を失った。
6時40分ごろのことだったという。
構内には当時、医師は常駐しておらず、東電の業務用車両に乗せられJヴィレッジに引き返し、さらに約45キロ先の福島県いわき市内の病院に搬送されたが、すでに倒れてから約2時間40分も経過していた。
大角さんは作業2日目に死亡したが、生活は楽ではなく半年前からは建設現場でガス溶接の仕事に当たっており、狭い所に無理な姿勢で潜り込む厳しい作業が続いたことから、毎日のように「しんどい。大変だよ」と奥さんに漏らしていたという。
奥さんは7月13日、労働基準監督署へ労災を申請しました。
代理人を務めるの大橋昭夫弁護士はこう語る。
「直前までの負担に加え、死と隣り合わせの環境で緊張を伴い、さらに防護服による蒸し暑さにも耐えようとした。これは、れっきとした過労死だ」
1日3時間で3万円、これはフクシマの英雄たちの賃金です。
しかし、将来白血病になっても文句を言わないという誓約書にサインをさせられます。
500畳の体育館に、240人もの作業員が防護服を見たまま、雑魚寝しています。(上の写真)
世界が注目する現代日本で、こんな杜撰な労働形態が容認されていいのでょうか???
原発作業員は、命を切り売りしているのかもしれません。
福島原発2号機から、わずか2mで作業をしている作業員がいます。
すでに被曝量は、危険域に達しているはずです。
3万円で命を切り売りしているとしか思えません。
東電社員と、下請け、孫請け社員では、意味が全く異なります。
もし将来、白血病になった場合、下請け孫請けは、何の保障もありません。
労働基準監督署はこの様な労働環境を知っているはずなのに・・・、何も指摘していません。
(原発作業員が寝泊まりしている体育館)
福島第1原発で働いている人達の現状をルポした記事を読み驚いています。
昨年の10月21日、福島第1原発の事故収束にあたった原発労働者や消防・自衛隊員たちが、スペイン王室のアストゥリアス皇太子基金から「フクシマの英雄たち」として表彰されました。
授賞理由は「勇敢で模範的な行為」とし「自らの命を犠牲にしてでも津波による原発の惨禍を避けようと闘った。彼らは人間としての卓越した価値を示してくれた」と評価されたからでした。
『近頃の日本は何かがおかしい』と思っている人は多いと思います。
その一つに「義理と人情」が無くなったと感じませんか。
「義理と人情」、よく聞く定番フレーズですが、多くの日本人はいまいちその意味を深く考えずにノリで使っているようにも思えます。
簡単に言うと、
義理・・・誰かと少なからず関係性(友好関係など)を持つことで、後々負う責任・協力義務。
人情・・・(顔見知りかどうかはまた別として、)人に対する深い優しさや愛情
こんなところではないでしょうか。
義理って社会における規範性、法規制、規律性の要素が強いですね。
昔は恩義は社会規範というか道徳規範で大事なキーワードでした。
一宿一飯の恩義、親子の恩義、君臣の恩義。
言い換えれば、親子は孝、君臣は忠ですね。
忠孝といえば平重盛ですか、『忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず』、がありますね。
「義理と人情」を実行するのは難しい。
義理と人情もときに相互に対立する状況がありますよね。
ものの道理でいけば、人情に悖る(もとる)なんて。
困窮している隣人がちょっと、他人の畑のものを失敬しているのを見てしまった。
あなたならどうしますか。
注意しますか、畑の持ち主に言いますか、それとも観て見ぬふりをしますか。
こんなのもそうなんでしょうね。
こんな歌もありました。
「人生劇場」
やると思えば どこまでやるさ
それが男の 魂じゃないか
義理がすたれりゃ この世は闇だ
なまじとめるな 夜の雨
「義理と人情に厚い人」
最近は自分中心の、利己主義的な人が増えてきていますので、こういう人は少なくなっているようです。
特筆したいのは「義理と人情」を重視する日本人のひとつの集団として「やくざ、任侠」と言われる人達がいました。
彼らは「一宿一飯」の恩義を受けただけで、その人に対して自分の生命も捧げて当然という極端な思想を持っているとされました。
これは実際にそうだったかどうかは疑問な面もありますが、一時期の大衆小説に理想的なひとつの庶民の姿として描かれてから常識化したようです。
でも、間違ってはいけません、「やくざ」は暴力団ではありません。
「義理と人情」を考えると、戦後教育の欠陥があちこちで露呈している事実に改めて気付かされます。
その最たるものが、かつての日本人なら金持ちであろうと、貧乏人であろうと持ち合わせていた倫理観、言い換えれば人としての「誇り」と「義理と人情」が絶滅寸前になっていることです。
これはまさしく戦後教育のためだと思います。
つい最近、都内で中東の某産油国のナショナルデーを祝う式典が華やかに開かれました。
この国は大震災の被災者支援にと、約400億円にも相当する原油をポンと寄付してくれました。
そのお礼にと被災地の子供たちや合唱団が太鼓や歌を披露したのです。
ここまではいい話でした、だが、その後がいけない。
子供たちを引率してきた某県の担当者が「自治体の予算では名目がつかないので、旅費と滞在費を産油国の大使館に請求していいでしょうか」と元国会議員に打診したという。
「お礼のためのわずかな旅費まで出せ、とは常識がなさ過ぎる。経済大国とはどこの国の話か」と元議員氏は憤る。
東日本大震災追悼式典での台湾に対する非礼も同じだ。
約200億円にのぼる義援金だけでなく、被災民に心から同情し、毛布や寝袋、食料などをいちはやく大量に送ってくれた台湾の代表者を1階の各国外交団が座る席に通さず、献花も後回しにするとは、義理も人情もあったものじゃない。
台湾を国扱いにすると中国が怒ってまずい事態になる、と小心な外務省の事務方は考えたのだろう。
ならば、外交団席を単なる来賓席とし、到着順に座らせるなど知恵を働かせればよかっただけの話である。
それも外務省の一存ではできない、というならば、民主党が大好きな政治主導の出番だったのではないでしょうか。
第一、中台関係が比較的安定している現時点で、献花の際に「台湾」がアナウンスされたくらいで目くじらを立てるほど中国はばかではない。
そんなことで抗議すれば、反中感情が高まるだけなのを在京大使館はよく知っている。
産油国に旅費をつけ回ししようとした公務員も、台湾をないがしろにした霞が関のお役人も、それを見逃した政治家も、皆まじめで世間的には「エリート」と呼ばれる人々です。
でも、根本的な「人間力」が決定的に足りない。
「義理と人情」を知らない。
日本人がそうなってしまった原因は何なのでしょうか。
「GNN(義理、人情、浪花節)で対応してきた」と言ったのはイラクへ派遣された自衛隊隊長の弁でした。
日本特有のあうんのコミュニケーションがイラクに通じたかどうかは分かりませんが、誠意のこもった対応は必ず通じると信じることが人間と人間の関係でありたい。
隊長の言葉にはそんな意思が込められているように思えました。
しかし次第に義理、人情、浪花節という言葉も消えていくのかもしれません。
いまやコミュニケーションの形態そのものが変わりつつあるからです。
なんだか日本の良いところがどんどん失われていくような気がしてならない。
1939年に結成したピアノトリオ「Nat King Cole Trio」での活動は有名です。
ビッグバンドの時代であったのに、ピアノ・ギター・ベースからなる編成は革新的で、ジャズトリオのスタイルの流行となりました。
その間、艶のある美声で歌手としても活動しました。
ナッキンコールは48歳でガンで亡くなりました。
その約30年後の1991年にその声は娘ナタリー・コール(Natalie Cole)とのヴァーチャル・デュエット「アンフォゲッタブルUnforgettable)」となってまた新しい感動を与えてくれました。
まさに時代を超越した音楽でしたね。
何しろ亡くなったナッキンコールが娘とデュエットしているのですから・・・、驚きましたし、親子の情に感動もしました。
曲が「アンフォゲッタブルUnforgettable)」(忘れられない,いつまでも記憶に残るという意味)だったのも意味ありげでした。
そうそう、美空ひばりはナッキンコールのファンだったらしく「ナット・キング・コールをしのんで」というアルバムがありましたね。
私はボーカルは余り聴かないのですが、ナッキンコールはいいですね。
女性だけではなく、あの甘い声は男性にも魅力的です。
喫茶 大工集団 欅でも時々CDで聴いて頂くのですが、お客様からのウケが良いアーティストです。
ジャズ・ピアニストでありボーカリストであったナット・キング・コール(Nat King Cole)が生まれたのは1910年の今日でした。
名前のキングは愛称でした。
往年のファンや洋楽通からはナッキンコールと呼ばれることが多いですね。
60代の人達は若かりし頃に彼の歌で踊った人も多いのではないでしょうか。
しかし、彼自身が主役となることはほとんどありませんでした。
渋い繊細なセンスを持った“脇役の名手”がトミー・フラナガンだったのです。
彼のピアノはそうした女房役に徹した時こそ、真価がもっとも発揮されました。
特に日本では、節度ある洗練されたプレイで人気が高く、1975・76年に2枚のリーダー・アルバムが日本からのリクエストで制作されています。
その後も何作かリーダー作をリリースし、その多くは流麗で品格あふれる演奏でしたが、アメリカではその個性の薄さからか、それほど評価は高くありませんでした。
やはり脇役でこそ、本領を発揮する人なのでしょう。
そんなトミー・フラナガンの代表アルバムといえば、誰もが即座に『オーヴァーシーズ』と答えるでしょう。
でも、それは彼のファースト・アルバムなのです。
「最高傑作は次回作」と言ったのは誰だったでしょうか・・・。
それは忘れましたが、本人もジレンマはあったに違いない。
そして66歳での『シー・チェンジズ』。
あえて『オーヴァーシーズ』を再演し、タイトル「チェンジズ」でそれを超えようとの意気込みをみせたのです。
人は得手不得手があるものです。
自分が得意とすることを知るのは成功の第一歩なのかもしれませんね。
例えそれが脇役であろうと、それを知ったなら脇役に徹する。
それがトミー・フラナガンだったのです。
今日はジャズピアニストのトミー・フラナガン(Tommy Flanagan)が1930年に生まれた日です。
彼はエラ・フィッツジェラルドの伴奏者として名高いピアノの名手でした。
さらに、ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』、ソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』、アート・ペッパーの『ストレート・ライフ』、ケニー・ドーハムの『クヮイエット・ケニー』等々のジャズ名盤で評価の高い演奏を披露しました。
そのため、生涯に4度もグラミー賞にノミネートされています。
〇〇社に転籍した人達は韓国名の使用を要求されて、日本の元在籍企業からの技術資料の取得も要求されたそうです。
韓国名を名乗る事で技術を盗んだ取得者を追及出来ないようにしているのだそうです。
そして、韓国政府の支援も働いているそうです。
日本半導体企業技術社員が〇〇社からのヘッドハンティング活動があってから10年ほど経過しています。
〇〇社に転職した人の中で退職した人も出ています。
しかし日本国内の関連企業に再就職を受けいれる企業はないそうです。
そりゃぁそうですよね。
受験勉強に勝ち抜いて、有名大学を卒業し、大学院まで卒業し、一流企業へ就職し、もっとお金が欲しいと〇〇社にヘッドハンティングされた結果が、57歳になって無職浪人です。
お金がすべて、お金が一番、ではないと気づいたことでしょう。
今、私たちは、毎日韓流ドラマやK-Popがテレビ等にあふれる国に暮らしています。
かの国の本当の姿を日本のマスコミは何も報じないまま。
島は奪われ、海の名前は書き換えられ、歴史はねじ曲げられ、金は巻き上げられ、技術は盗まれ、伝統文化は横取りされながら。
2006年以来、私たちは親切に彼らのビザまで免除して自由に私たちの国への出入りを許しているのです。
東日本大震災発生から1年を迎えた3月11日、「日本人は地震で一瞬に死んでください」「私が殺すとすれば日本人!」などと、たどたどしい日本語で語る韓国の若い男性の動画が「ユーチューブ」にアップされ、ネットが騒然となりました。(上の写真)
問題の動画は「ハ~イ 日本人たちよ、こんばんは」で始まり、「あなたたちは被爆しているんですか?もう直ぐ東京でも大地震が発生して死んでしまうのですか?」と問いかける。
そして、「人を殺そうと考える場合は日本人をイメージしていたが、殺す必要がなくなった。日本人が勝手に自滅してくれるから。あ~気持ちいい。それでは、これから日本の復興を、ずっと見守りながら、楽しんでまいります。一瞬に死んでください、日本人の皆さん」
と語って動画は終了する。(現在はYou Tubeより削除されています)
韓国ではこの青年を「大統領にしたい」「現代の安重根」と称賛した書き込みが多くあります。
コレを見た日本人が世界中の人にこの酷い動画を見てもらおうと英語、フランス語などの字幕を付けようとの呼びかけが始まり、アメリカの掲示板「4chan」には「All Japanese be killed in an earthquake」というスレッドが立てたれました。
百年後の日本を思い描いてほしい。
私たちの子や孫はどんな日本を生きているのでしょうか。
自由に意見が言える国に生きているだろうか。
努力の成果を横取りされない国に生きているだろうか。
国旗が高々と掲げられる当たり前な国を生きているだろうか。
誇りもって国を愛することを、許される国に生きているだろうか。
彼らがどんな国を生きることになるのか、今現在の私たち日本人一人一人の決断と具体的な行動に委ねられている。
私たちの国日本は、今、大きな歴史的危機に瀕しているのではないでしょうか。
学生時代の友人が数年前に韓国の〇〇社にヘッドハンティングされました。
現在の〇〇社の好調は日本半導体企業技術社員を年収は日本在籍時の3倍、家付き、車付きという条件で200名以上をヘッドハンティングした結果といわれています。
彼はその条件を受諾して〇〇社に転籍したのです。
しかし、声が掛かっても将来を考慮して辞退した友人もいました。
昨日「蛍の光」について書きましたが、卒業式といえばもう一曲「仰げば尊し」ではないでしょうか。
と、書けば「古い」と言われます。
最近の卒業式ソングはJ-POPが定番なのだそうです。
ちなみに、 TSUTAYAが発表した昨年の『卒業ソングランキング』によると、昨年のベスト3は「道」(EXILE)、「3月9日」(レミオロメン)、「サクラ咲ケ」(嵐)だったそうです。
「仰げば尊し」は明治から大正、昭和にかけて、学校の卒業式で歌われる定番の曲となり、現在でも日本人の記憶に残る歌となっています。
しかし、歌詞が文語であるため児童・生徒には分かりにくいということ、歌詞の「仰げば尊し 我が師の恩」が非民主的だとか、「身を立て名をあげ やよ励めよ」が強制的とされ、卒業式で歌われなくなったのだそうです。
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「仰げば尊し」
一、
仰げば尊し 我が師の恩
教えの庭にも はや幾年(いくとせ)
思えばいと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ別れめ いざさらば
二、
互いに睦(むつみ)し 日頃(ひごろ)の恩
別るる後(のち)にも やよ忘るな
身を立て名をあげ やよ励めよ
今こそ別れめ いざさらば
三、
朝夕なれにし 学(まな)びの窓
蛍のともしび つむ白雪
忘るるまぞなき ゆく年月
今こそ別れめ いざさらば
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今でも「仰げば尊し」を歌っている学校においても、二番の歌詞では「身を立て名をあげ」と立身出世を呼びかけている事が「民主主義」的でなく、また「やよ」のような文語は「難解である」として敬遠され、本来の二番を省略し、三番を二番として歌われることも多いのだそうです。
私なんぞは「身を立て名をあげ やよ励めよ」の歌詞部分が一番好きなのですがね。
今日、「仰げば尊し」について書こうと思ったのは、『卒業式において「仰げば尊し」を強制される事についてどう思われますか?』とアンケート調査を受けたからなのです。
その調査票には下記のように書かれていました。
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生徒側は教育の経費を税金としてを支払っており、教師に無料でボランティアをしてもらっている訳ではありません。
教師側が給料を受け取る事は一つのビジネスとして成立している以上の理由付けは難しく思います。
「我が師の恩」と言う歌詞を歌う行為は、個人的に教師に恩を持つ人間がそれぞれの場で感謝し謳えば良い物であると考え、一斉に強制的される物ではないと考えます。
卒業式など参加せざる得ない場所で、強制的に教師に向かって起立をし斉唱すべき事は「仰げば尊しに反対する者も少なからずおり、このような主義主張を持つ者の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する権利。起立や斉唱の義務を課すことは思想・良心の自由を侵害する」
一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しく、教育基本法10条1項で定めた『不当な支配』に該当し違法すると考えられます。
(以下省略)
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このアンケートで書かれている主張をするなら、給食は給食費を払っているのに生徒に「いただきます」「ごちそうさま」と言わせるのはおかしい、ということになります。
通常それは礼儀知らず、というそしりをうけると思います。
この論理で行くと社会の授業は特定のイデオロギーに洗脳されます。
キリスト教徒だったら進化論は受け入れられない、等々いくらでも難癖をつけることはできますよね。
金を払ってるんだからすべて自分の好きなようにするという論理にはとても傲慢さを感じます。
大人が言うこととは思えません。
「いただきます」「ごちそうさま」と言わせないと主張している人もいるようですが、家庭でろくにしつけもできない親が、学校に授業だけでなくしつけまで希望している方がはるかに異常でしょう。
何か学校に対して過剰な期待や妄想を抱いている人が多くないでしょうか。
「仰げば尊し」を歌えばそのような思考をするようになるとでも思っているのでしょうか。
子供の時はわからなくても大人になってから世話になったと感じることもあるでしょう。
先生に感謝する歌の一曲を歌ったところで害はないでしょう。
大人のおおらかさというものを持つべきでしょう。
それに、物事を教わる立場の人は教える人に対してある程度の礼儀をもって接するべきではないかと思います。
なにせ相手はその分野においては自分より目上なわけですから。
それでも「そんなの強制だ!」と言って頭も下げないのは、例えば柔道を習いに行って道場の師範にふんぞり返って「おい、柔道教えろ!」と言うようなものではないでしょうか。
「身を立て名をあげ」という歌詞が戦前の立身出世主義だとか、「仰げば尊し 我が師の恩」と師を尊く仰ぐことが人の上下を作るとかいうは屁理屈なのではないでしょうか。
それは偏った人権教育の最たるものでしょう。
「仰げば尊し」でもう一つ書きたいことがあります。
映画「二十四の瞳」をご覧になったことはありますか?
私は何度観ても、子供達の純真さと主人公の大石先生の子供達を思う真心に涙が出ます。
その「二十四の瞳」の主題歌が「仰げば尊し」でした。
学校の教師は生徒から「仰げば尊し」と言ってもらうことに申し訳なさを感じているのかもしれませんが、大石先生のようであれば「仰げば尊し」と言ってもらう資格は十分あると思います。
学校の先生たちに「不易なるもの」の意義を問い返してほしいと思います。
(松竹映画 「 二十四の瞳 」 仰げば尊し)
左の写真は某高校の卒業式の式次第です。
卒業生からは『お別れの言葉』となっています。
高校最後の日である卒業式にも日本語を教えてほしいですね。
この高校の卒業生は『答辞』、『祝辞』、『送辞』という言葉を知らずに卒業です。
しかも、在校生がいるのに送辞がありません。
「蛍の光」も「仰げば尊し」も歌われません。
「蛍の光」は元々はスコットランドの歌だったことはご存知でしょう。
では、私達が教えられた「蛍の光」は二番まででしたが、四番まであることをご存じでしょうか?
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「蛍の光」
作詞 稲垣千頴
一、
ほたるの光、窓の雪。
書よむ月日、重ねつつ。
いつしか年も、すぎの戸を、
明けてぞ、今朝は、別れゆく。
二、
とまるも行くも、限りとて、
かたみに思う、千よろずの、
心のはしを、一言に、
さきくとばかり、歌うなり。
三、
筑紫のきわみ、陸(みち)の奥、
海山遠く、へだつとも、
その真心は、へだてなく、
ひとつに尽くせ、国のため。
四、
千島のおくも、沖縄も、
八洲のうちの、守りなり。
至らんくにに、いさおしく。
つとめよ わがせ、つつがなく。
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読んで分かるように、この歌はそもそも学校での別れの曲ではなく、千島や沖縄といった日本の端までの防衛につく兵士を見送る歌なのです。
戦後は何故か三番、四番は闇に葬られました。
これがどこの指導によるものかは、色々調べてみましたが確証あるソースは見つけることができませんでした。
GHQによる指導があったのか、それとも日教組が「軍国主義の典型だ」と糾弾したのか。
こんな歌は帝国主義の歌だという人がいるかもしれませんが、私にはそうは思えません。
この歌詞の中には他国を侵略して勢力を拡大しようという意図など私には読み取れません。
明治時代だった当時、筑紫(九州)や陸奥(東北)というのは、かなり遠く思える地域だったのでしょう。
ましてや千島の端や沖縄の端と言ったら、本州に住んでいる人にとっては、地球の裏側へ行くようなものだったのかもしれません。
そういう土地へ、生まれ育った祖国を守るため、そして祖国に住む家族を守るため任務に旅立つ人を、別れの悲しみを噛みしめつつ、そして励ます為に歌われた曲が「蛍の光」だったのです。
今度「蛍の光」を聴くときはこういった視点で聴いてみるとまた違う感慨を感じることができると思います。
このような素晴らしい歌が、社会情勢やイデオロギーによって改変されてきたことは悲しいことです。
昨今の近隣諸国との関係を鑑み、多くの人が四番までの歌詞を理解し、先人の思いや、その功績に感謝するようになることを願うばかりです。
先人がいて、私たちがいる。
将来の国民にとっては、私たちも先人の一員となります。
イギリスの歴史学者トレンビーは言っています。
「自国の歴史を忘れた民族は滅びる」
戦後、GHQは日本に対して歴史と修身(道徳)の教育を禁止しました。
その理由は、トレンビー言葉からも明らかです。
今こそ、自国の歴史を取り戻す必要があるのではないでしょうか。
余談ですが「蛍の光」は1948年までは韓国の国歌でした。
もちろん歌詞は韓国人が作った別の物でした。
さすがにまずいと思ったのか、今は「蛍の光」をベースに作られた曲に変更されていますが、まだ似ていますね。
今月は卒業の季節で、幼稚園から大学まで卒業式が行われていますね。
卒業時には、友との別れ、教育の一つの課程を終えた充実感、そして未来への希望など、さまざまな思いが交錯します。
卒業式に「蛍の光」を歌った思い出がある人も多いでしょう。
そして今年も歌われていることでしょう。
あれから1年が過ぎました。
昨年の3月11日、午後2時46分、太平洋三陸沖を震源として地震が発生しました。
死者は1万5854人、行方不明者は3155人に上りました。
被災地では今も福島第1原発事故の影響も含め、34万人以上が仮設住宅などでの避難生活を強いられています。
全半壊の家屋は38万3246戸に及ぶなど甚大な被害が出ました。
岩手、宮城、福島の3県で2252万トン以上と推計される膨大な量のがれきは、放射性物質による汚染の影響で広域処理が進んでいません。
・・・・・去年の今日、店が終わり、家に帰ってテレビを見たときの不思議な感覚。
車や家が流されいるのです。
すぐそこまで津波が来ているのに、これから車に乗ろうとしている人・・・。
・・・今も言葉を無くしています。
石川県にも吉野十景(吉野谷村)、金沢八景、金沢十景、大乗寺山八景、上野八景、湯涌十景(以上金沢市)、七尾八景、湧浦八勝、能登八景(以上七尾市)、加州八景、能美八景(以上小松市)、輪島八景(輪島市)、三崎八景、長浜八景(以上珠洲市)、山代八景、鹿島八景(以上加賀市)、邑知八景(羽咋市)、山中八景、山中十景、山中十二景(以上山中町)、鶴来十二勝、鶴来八景(以上鶴来町)、富来八景(富来町)、神代八景、志賀八景、中居八景(以上穴水町)、黒島八景、総持寺十境、皆月八景(以上門前町)、鵜川十二景、鵜川八景(以上能都町)。
たくさんありますよね(旧市町村名で記入しました)。
合計で何カ所になるのでしょう。
吉野十景は「虎狼山」○、「雲龍山」○、「高月池」、「月影沢」、「仙雲峰」○、「太白山」○、「鉢峰山」○、「白布瀑」、「飛龍岸」○、「黄門橋」の十ヶ所です。
○印が付いている所は大工集団 欅より見えます。
吉野十景は中国の元に留学した曹洞宗の禅僧「大智禅師」が命名したとされています。
大智禅師は留学前、総持寺を開いた螢山招謹に師事しようと石川に来られました。
帰国後の1330年頃、吉野谷に祇陀寺を開いたという。
大智禅師が中国を懐かしみこの地で吉野十景を選んだとの事。
意外と地元の景勝地を知らないものです。
吉野十景の「高月池」が何処にあるのか知ったのは引っ越してきて数年後でした。
故郷石川県の知らない景勝地を尋ね歩いてみたいものです。
吉野十景をご存知でしょうか。
大工集団 欅のある旧吉野谷村にある十ヶ所の景勝地です。
全国に〇〇十景や〇〇八景と名の付いた景勝地があります。
(← 吉野十景の一つ、雲竜山)
今日は『レコード針の日』なのだそうです。
では、『レコードの日』というのがあるのかと調べても・・・、ありませんでした。
『レコード針の日』なんて、誰が何のために考えたのでしょう、調べても分かりませんでした。
エジソンが最初に発明した蓄音機では鉄の針が使われていました。
後にエジソンは円盤式のレコードでダイヤモンド針を採用しています。
レコード、今でも現役で聴いている方はどれだけいらっしゃるのでしょうか?
私は今でも聴いています。
CDが販売の主役になってから20年程度ですが、現在ではレコードというものは殆ど見かけなくなりました。
今だに「レコード屋」とか「レコード大賞」という言葉を聞くと、時代は変わっても「CD屋」とか「CD大賞」ではピンときませんよね。
レコードの聴き方を知らない人がいます。
まず、ターンテーブルの蓋を開ける。
レコードを棚から取り出して、ジャケットから出す。
レコードをA面を上にしてターンテーブルに乗せる。
中心に重りを乗せてレコードを安定させます。
レコードの静電気を取り、ホコリをきれいに拭き取る。
スタイラス(レコード針)の清掃をする。
おもむろにトーンアームを人差し指に取り、そーっとレコードに下ろす。
そして、やわらプリアンプのボリュームを廻す、すると音が出るのです。
こんな儀式にも似た面倒な事をしなければレコードから音は出ません。
CDに比べて扱いがナント煩雑なのでしょう。
これがCDならば、トレーを出してCDを乗せ、スイッチONで音は出ます。
今でもレコード愛好家がおられますし、CD音源よりは音の深みがあって良いと言われています。
ただ、保存にも場所を取るし・・・。
でも、ジャケットが大きい分、存在感もあってレコードジャケットそのものが芸術の域に達しているレコードも多くありました。
事実、レコードジャケットのデザインには有名なアーティストの手による物が多くありました。
でも・・・、CDジャケットにはその様な物はありません。
耳が不自由だったエジソンは、記録用として蓄音機を発明しました。
当初は、メモ帳代わりに、開発されたので、音質は二の次でした。
円筒にスズ箔をかぶせ、鉄製の針で録音していたので、2~3回しかもたなかったそうです。
当時の人にはそのカラクリが理解できず、箱の中に小さな人が入って、中でしゃべっているンじゃないかと、思われていたそうです。
後に円盤式のレコードが開発され、耐久性のある、ダイヤモンド針が採用されました。
このレコード針、こいつがくせ者なんですよね。
私はレコードカートリッジ(レコード針が付いている物)にDENONのDL-103をよく使うのですが、歳を取り目が老眼になったせいで昨年末にとんでもないことをしでかしました。
スタイラス(レコード針)の手入れをしようと思って針を折ってしまったのです。
しょうがないので予備のDL-103を出してシェル(カートリッジを取り付ける部品)に取り付けていると・・・、また針を折ってしまいました。
ナントモ、ナントモ、情けなくなりました。
こんなことで数万円の出費です。
歳を取るって、こんなことなんですよね。
若い頃は鼻歌を歌って取り付けていたのに・・・。
今では音楽録音と言えばCDやDVDといった光学式や、iPodなどのMP3になっていますが、やはり味のある音質は、アナログ盤、つまりレコードの方に軍配が上がりますね。
3月9日、今日は『サンキューの日』かと思ったら、そんな日は無いようです。
2012年3月8日 |
そうです、北原白秋作詞、山田耕筰作曲の『からたちの花』のからたちです。
『からたちの花』
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
からたちのとげはいたいよ。
青い青い針のとげだよ。
からたちは畑の垣根よ。
いつもいつもとほる道だよ。
からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金のたまだよ。
からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかつたよ。
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
余りにも有名な唱歌ですが、こうして文字にすればたった2行の単純な詩なのですが、何故か心の吟線に触れますよね。
では、『誰が何故、からたちのそばで泣いたのでしょうか』、そして『だれがやさしかったのでしょうか』。
この詩の意味を真に理解できたのは、恥ずかしながら、つい最近、山田耕筰著『自伝 若き日の狂詩曲』を読んでからのことでした。
山田耕筰(1886~1965年)は、日本初の管弦楽団をつくるなど日本における西洋音楽の普及に努める一方、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動した、日本の音楽史に燦然と輝く人です。
が、少年期・青年期を労働苦学の中に過ごします。
十年に及ぶ父の病気で家は貧しく、長兄は家出したまま長く家に帰らず、末の弟は、わずか5歳で亡くなります。
9歳のとき、母のすぐ上の兄の養子に出され、巣鴨にあった自営館という活版学校に入れられます。
内部に夜学校のある勤労学校でした。
そして、病床の父も10歳のとき他界します。
磨り減らした庭下駄のような薄い寄宿舎の弁当では、とても足りようはずもなく、腹が減りたまらなくなると、活版所の周囲の畑から、季節季節の野菜を手当たり次第にとっては生のままかじります。
秋になると、色づいたからたちの実に目が輝きました。
食べられるはずもないからたちの実は、はじめはすっぱくて咽せかえるほどでしたが、馴れるとなかなか良いもので、生野菜と一緒に食べると下手なサラダより数等いい味でした。
『工場で職工に足蹴りされたりすると(活版職工は大体両手がふさがっているので、なぐるより蹴る方が早かった)、私はからたちの垣根まで逃げ出し、人に見せたくない涙をその根方にそそいだ。そうしたとき、畑の小母さんが示してくれる好意は、嬉しくはあったが反ってつらくも感じられた。漸くかわいた頬がまたしても涙に濡れるからだ。』
と自伝にあります。
そうなのです、からたちのそばで泣いたのは作曲をした山田耕筰なのでした。
そして、やさしかったのは野菜を盗んだ畑の小母さんだったのです。
北原白秋が山田耕筰の苦難の少年時代を聞いて感動し、作詞したのです。
山田耕筰の活版所生活は9歳から13歳まででしたから、子供時代にこれだけ苦労されたのですね。
その後、山田耕筰は蝕まれた肺部への脅威のため、母と鎌倉に転居し、13歳から足掛け3年にわたる静養生活を送ります。
鎌倉の磯で釣った黒鯛や、紙だの筆墨だのの行商をしながらの静養でした。
18歳の年、最愛の母も子宮ガンで死去しました。
官立の音楽学校へ進むことをはじめて死床で許す母でした。
上野音楽学校時代は下宿費が払えずに追い出され、蔵前の浅草橋教会の一室に身を置いたりの労働苦学の生活でした。
そして、24歳のとき、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツ・ベルリン音楽学校作曲科に3年間留学することが出来ました。
猛烈に勉強に打ち込みます。
山田耕筰は『自伝 若き日の狂詩曲』に書いています。
『少年期を振り返ります。9歳から13歳までの足掛け5年にわたる活版所生活は、いろいろな意味から私を錬磨してくれた、むしろ感謝していい時代だった。』
『将来の夢は音楽者と定められたのも、9歳の自営館時代のことだった。』
『からたちの、白い花、青い棘、そしてあのまろい金の実、それは自営館生活における私のノスタルジアだ。そのノスタルジアが白秋によって、詩化され、あの歌となった。』
今日は国立大学の前期入学試験の合格発表がありました。
合格された皆さん、ご両親、おめでとう御座います。
不合格となった人も落ち込むことはありません。
山田耕筰は、子供時代は貧乏で、仕事が辛くて、からたちのそばで泣いたのに、両親が他界してから学校に入学し、努力が認められ、24歳で留学しました。
そして世界的な音楽家になりました。
人生はこれからです。
冬の果物と言えばミカンですよね。
この冬もミカンをたくさん食べました。
その他の柑橘類としては、グレープフルーツ、三宝柑、ユズ、カボス、夏みかん、マンダリン、・・・。
そうそう、キンカンもありますね。
そんな中で『からたち』をご存知でしょうか。
(← からたちの花)
実はこのテーブル以外に、小テーブル2個、一人掛けの椅子6個、3人掛けの椅子1個を買いました。
完全な衝動買いでした。
材質がチークで、彫りの深い彫刻がなかったなら絶対に買っていません。
・・・そんなことはどうでもよいのです。
店の各テーブルに置いてある『木の話1・2』に、チークが書いてないとお客様より言われました。
『木の話1・2』は店の建物に使った樹木を書いたので、家具であるテーブル等に使われている樹木は書いていません。
そこで、(前置きが長くなりましたが)今日はチークについて書きます。
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チーク
クマツヅラ科チーク属の落葉広葉樹
原産国は東南アジアで、タイ・インドネシアが主ですが、ミャンマー・インドでも少し産出します。
色は褐色、黄褐色、茶系の縞をもつものもあります。
チークは何と言っても世界的に名の知れた高級銘木です。
市場では産地名を冠して、タイチーク、インドネシアチークと呼び、区別しています。
木質はとても重くて、堅い木です。
木理はおおむね真っ直ぐで、伸縮、反張が少なく、表面はワックスを塗ったような肌触りから耐久性、特に腐食に強い木です。
その為、潮風や海水で濡れる船舶の甲板材、内装材、としても使われていました。
縞のあるものとないものがあり、その時代の流行により需要は左右されてきました。
現在はライトカラーのシマナシ(色の明るい縞のないもの)がとても珍重されているようです。
チークの欠点はなんと言っても節です。
チークの節はとても大きく、どうしようもありません。
また、石炭(木目のあいだに出る白粉状のもの)を含んでいますので、加工する鑿・鉋等の刃を痛めてしいます。
つまり、それほど石炭が入っており、堅いのです。
用途はなんと言っても高級家具でしょう。
ヨーロッパでは高級家具と言えばチークとローズウッドです。
どちらも色といい、艶といい、杢目といい、『うっとり』しますよね。
その他には高級内装材、ムク材のドア、船舶内外装材、彫刻材、フロアー材等に用いますが、どちらにしても高級品ですよね。
日本では加工した家具等の商品がヨーロッパから輸入されていますが、建築用材として用いるチーク材を扱っている銘木店は国内では数件しかありません。
中世からヨーロッパでの需要が多かったため、現在では生育本数が極端に減ってしまいました。
その為に近年では生育地の国が輸出規制をしていることもあり、伐採が輸出国の状況により変化しますから、輸入量は減ってきています。
森林の伐採による問題は何も日本ばかりが原因ではありません。
このチークはヨーロッパの需要のために伐採が続き、現在では本当に少なくなりました。
余談ですが、ヨーロッパやアメリカでは、つい数十年前までストーブの薪にするためだけに、貴重な森林を伐採していたのです。
ですから今ではヨーロッパは禿げ山だらけではありませんか。
それでしょうがなく、アルプスの少女ハイジのように放牧をしているのです。
尤も、このような現象は現在でも後進国では見られますが・・・。
喫茶 大工集団 欅でも薪ストーブを用いていますが、薪は使えない廃材・端材を使っています。
私は『薪作りのために裏の林を伐ろう』な~んて思いませんよ。
鯨もそうですよね。
欧米ではランプの油だけを取るために捕鯨をしていました。
その量たるや日本の捕鯨と比べてもとーんでもない量でした。
日本では頭から尻尾まで余すところ無く利用するために捕鯨をしてきたのです。
彼らがランプに換わる明かりを手に入れ捕鯨をしなくなったからと言って他国(日本を含む鯨の文化を持っている国と地域)の文化にまでなっていた捕鯨に異を唱えるのは如何なものでしょうか。
ランプの油を取るだけでは、文化にまで昇華しなかったではありませんか。
余談を長々と書きました、本題に戻りましょう。
日本では、今でもチーク需要は高級材の方があり、ヒジョーに高価となっています。
そのため偽物のチーク材をよく見ます。
数年前に先輩から「チークの家具を買うから見てくれ」と言われ、家具屋さんへ連れて行かれた事がありました。
その家具屋さんでは『チーク家具フェアー』をしていて、沢山のチークらしき家具が置かれていましたが、本物のチーク家具はほんの数品しかありませんでした。
手の平にのるような小さな箱ですらオークの塗装品でした。
オークにチークオイル等を塗るとチークらしくなります。
一般の人では区別はつかないでしょう。
その家具屋さんもきっと知らなかったのだと思います。
喫茶 大工集団 欅にあるこのテーブルについてお客様から、
「コレ1枚の木?」
「何処で買ったの?」
もう一つは、「いくらだった?」。
と、尋ねられます。
お答えは
天板は1枚ですが、足は違います。
買ったのは〇〇です。
作られたのはタイのRoyal Thai Handicraft Centreです。
お値段は〇〇〇〇〇〇バーツでした。
20歳を過ぎた頃から地元インディアナポリスのクラブに頻繁に出演するようになりましたが、そのころすでに彼のトレード・マークとなる“オクターブ奏法”を始めていたのだそうです。
“オクターブ奏法”とは、和音の発生が可能な楽器(弦楽器、鍵盤楽器)において、1オクターブ離れた同じ音を、一人の演奏家がユニゾンで演奏することです。
ウェス・モンゴメリーの名はオクターブ奏法の代名詞にもなっています。
ジャズといえば、トランペットやサックスなどがソロ楽器としての花形ですが、ウェスが作り出したオクターブ奏法は、以前のシングルトーン(単弦)によるソロとは異なり、親指で2本の弦を同時に弾き、メロディをオクターブユニゾンの太い音で奏でることで、管楽器に匹敵するほどの「強さ」と「艶」を出すことができました。
その奏法と、歌心あふれるプレイによって、ウェスはソロ楽器としてのジャズ・ギターの地位を確立したのです。
彼の登場は、ジャズ・ギター界にとってまさしく一大事件でした。
ウェスは演奏活動のほとんどを生地のインディアナポリスで行なっていたため、一般に知られるようになるのは36歳になってからでした。
たまたまインディアナポリスに来ていたサックス奏者のキャノンボール・アダレイが、ウェスのプレイを聴いて驚嘆し、プロデューサーのオリン・キープニュースに知らせたのがきっかけとなり、レコーディングが始まります。
そして1959年の初リーダー作を皮切りに、1963年11月まで10数作のリーダー作を録音しました。
たちまちウェスの評判は世界中に広がりました。
1964年以降はイージー・リスニング的なジャズアルバムを発表し、ジャズファンのみならず、幅広い層に人気を獲得したのです。
ウエス・モンゴメリーはピックを使わずにギターを弾きました。
使わない理由として「音色が好きだから・・・」と言っています。
まろやかで温かく、しかも太い音は親指ピッキングから来るもので、ピックと親指ではずいぶん音色が違います。
上の写真、名盤「Full House」のジャケットにはウエスの右手がアップで写っていますネ。
右手の小指をピックガードの留め金にひっかっけ、人・中・薬指はボディに軽く触れています。
基本はダウン・ストロークなのですが、速いパッセージではアップ・ストロークも使い、さらにハンマリングやプリング・オフも交えて表情豊かに歌いあげています。
流石に名人です。
ジャズ・ギタリストのウェス・モンゴメリー(Wes Montgomery)が誕生したのは1925年の今日、3月6日でした。
モダン・ジャズ・ギタリストの代表格、ウェス・モンゴメリー、彼のギターが好きな人は多いはずです。
彼は20歳の時、ジャズ・ギターの開祖であるチャーリー・クリスチャンのレコードを聴いて、ギタリストになる決意を固めたそうです。
レギュラーコーヒー(粉コーヒー)を初めて飲んだのは中学1・2年生の時でしたから、もう40年以上前になります。
父親に連れられて初めて喫茶店へ行ったのです。
初めて『ニガ味』という大人の味を知りました。
当時、喫茶店は高級、ハイカラ、おしゃれで、なにやら文化とか先端とか、無頼の香りがしたものです。
社会人になってからは毎日仕事や昼休みに喫茶店を利用しました。
チョットした打合せも喫茶店で行いました。
セルフサービスで低価格のドトールが関東で店舗を急速に拡大し始めたのは1980年代でした。
「ドトールができると周辺の喫茶店が5軒つぶれる」と言われたそうです。
1981年に喫茶店は全国に15万4630店あったそうですが、これをピークに2006年には8万1062店にまで減少しました。
今は7万店ほどだそうですから30年で半減したことになります。
金沢ではもっと極端です。
どこにでもあった喫茶店ですが、今ではコーヒーを飲みたいと思っても見あたらないこともあります。
コーヒー党が減っているわけではないのです。
日本のコーヒーの輸入量(生豆換算)は1980年には19万4294トン、2010年は44万4487トンと2倍以上になっています。
今や世界3位のコーヒー輸入国なのです。
(社)全日本コーヒー協会の「コーヒーの需要動向に関する基本調査」によると、一人1週間当たりの消費量は1983年8.6杯、2010年は10.93杯になっています。
特に40代と50代は“コーヒー・エイジ”で14杯以上にもなります。
日本人は家庭で6.74杯、職場・学校で2.86杯飲んでおり、喫茶店・コーヒーショップでは0.23杯に過ぎず、喫茶店が斜陽なのも頷けます。
ではどんなコーヒーを飲んでいるのでしょうか。
一人1週間当たり、インスタント4.69杯、レギュラー3.27杯、リキッド(ペットボトルや紙パック入りのもの)1.09杯、缶1.87杯です。
インスタントはストレートではとても飲めた代物ではありませんが、ミルク(と砂糖)を入れればそこそこの味がするし、簡単です、第一安直ですから人気なのでしょう。
2009年の世界の一人当たりコーヒー消費量(kg/年)は日本は3.36kgでした。
がぶがぶ飲んでいるように思える米国が4.09kgです。
ところがコーヒー好きの国はあるもので、ルクセンブルク27.40kg、フィンランド11.92kg、ノルウェー8.92kg、デンマーク7.89kg、スイス7.65kg、スエーデン7.35kg(ICO:国際コーヒー機関調べ)です。
日本が3.36kgと聞くと『そんなに飲んでいるのー!?』と思うのですが、ルクセンブルクの27.40kgなんて『一日中コーヒーを飲んでいるのでは?』と思ってしまいます。
「世界のコーヒー消費量で1位のアメリカも、国民一人当たりのコーヒー消費量となると10位にすら入りません。
アメリカは11位、日本は12位です。
国全体の消費量と国民一人当たりの消費量では、やはり話が違ってくるのですね。
コーヒー1杯が豆10gとすると、1位のルクセンブルクは1年間に国民一人当たり2470杯ものコーヒーを飲んでいることになります。
2740杯・・・、赤ちゃんからお年寄りまで、1日7.5杯を飲んでいることになります。
起床時、朝食後、午前の仕事中、昼食後、午後の仕事中、そして夕食後と就寝前に各1杯ずつ飲むのでしょうね。
私は1日に5・6杯飲みますからルクセンブルク人が多飲とは言えないものの、彼らがコーヒー好きなことは確かです。
現代人はリタイアすると外で人と会うことが少なくなるそうです。
すると喫茶店にも行かなくなるのではないでしょうか。
これから私達のような老人が増えるのですから、喫茶店も斜陽の道をたどるばかりなのでしょうね。
喫茶 大工集団 欅は喫茶店です。
・・・あたりまえですね。
今日はコーヒーの話をしましょう。
(喫茶 大工集団 欅では『コーヒー』ではなく『珈琲』と書きますが、それは喫茶 大工集団 欅の珈琲だけです)
調べてみると、
・平和の日(国際ペン東京大会1984)
・三の日(日本三大協会)
・金魚の日
もっと多くあると思ったのに、意外と少ないのですね。
とにかく今日は雛祭りです。
3月3日に行われる雛祭りが今日のような形式になったのは江戸時代の初め頃からなのだそうです。
5節句の一つとして女の子の節句となり、雛も15体揃い、婚礼の調度を模して豪華なものとなったとのこと。
桃の花を供え、白酒を飲むのがお決まりなのですが・・・。
今時、その様なことをするお宅はあるのでしょうか。
喫茶 大工集団 欅の雛人形は内裏雛二体しか飾っていませんが、本当は三人官女・五人囃子・右大臣・左大臣、そして三体の仕丁、合計十五体があり、七段飾りでした。。
内裏雛以外は随分以前より飾っていません。
箱からも出していないのです。
七段飾りは場所も取り、今でも飾っているお宅は少ないのではないでしょうか。
雛祭りが終わった後に雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという話は、「お雛様をきちんと片付けるけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という躾の意味から言われていると思っていたら、旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由なのだそうです。
2012年2月29日 |
・周波数帯域
要するに、「低い音、高い音はどの辺りまで出るか」です。
高いほうも低い方も程ほどに出るのが良いのは当たり前で、それよりも質のよい音でそれをクリアすることが必要だと思います。
・ダイナミック・レンジ
普通に聞いていて、急に大きな音が入った時に、音が腰砕けしてしまうのは困ります。
ダイナミック・レンジがある程度広くて、大きな音が割れずに出ることは大事です。
・残留雑音
演奏が静けさを保とうとしている時は、やはりシステムから雑音が出ないで欲しいものです。
・過渡(トランジェント)特性
楽器の音が、スパッと出てくれることは結構大事です。
・音色の鳴らし分け
今、何という楽器が鳴っているのかだけではなく、たとえばテナーバトルの時に、どちらが吹いているのか、それが見分けられなければ興ざめです。
・変調
音質あるいは音量が格段に違う音が同時に鳴った時に、ゴチャマゼになることを変調といいます。
ダンゴになって聞こえないことが大切です。
詳しく書けばきりがないのですが、今日は上記の内でも周波数帯域だけ少し書きましょう。
機会があれば、古い名機と言われるシステムを一度聴かれることをお勧めします。
実にカッチリとした、良い音がしています。
でも、よく聴くと実は高いほうも低い方もあまり出ていないことが判ります。
つまり、周波数帯域が狭いのです。
ベースとシンバルが一番よく判ります。
シンバルなら、「ジャーン」と鳴っています。
これが現在の普通のシステムだと、シンバルの「ジャーン」の上に、「シュワーン」くらいは聴けます。
更にもっと上質なシステムだと「ジュワーン」、そのもっと上の・・・、何とも言えないかそけき雰囲気のシンバルが聴けます。
でも、古い名機ではそれは無理です。
それなのに、何故か心地良い音なのです。
特に人の声などの中音が明瞭です。
こういう正しい佇(たたず)まいの音を聴くと、バランスの重要性が身に沁みます。
不思議ですよね。
つまり、周波数帯域は狭くてもジャズの雰囲気を味わうには苦もなく聴けるのです。
ですから、パラゴンやオリンパスという古いJBLのスピカーで聴いています。
以上のように、ジャズを聴くためにはオーディオ・システムに求められるいくつかの条件があります。
それぞれに、それなりの許容限界があり、人によりさまざまです。
「じっくり聴く」のであれば、やはりラジカセや、MP3プレイアーではマズイでしょう。
ハッキリ言えば、これらはまともな音が出ないのですから、音楽を聴くための物ではありません。
まぁ、「完璧」とまでは言わないまでもそこそこには上記の特性が水準以上のレベルであって欲しいものです。
無論、さらに、部屋、家族及び近隣の環境も、影響してきます。
可能な範囲で良い条件を確保したいものです。
そして、その後は、「オーディオのことなんか忘れて、ジャズを聴く」、これが大事です。
昔、とあるジャズ・ファンのお坊さんが「無事の音」と言われました。
これを私は「オーディオのことを忘れて、ジャズだけが落ち着いて聴ける音」と受け取っています。
オーディオは、ある程度にとどめたほうが良いでしょう。
おざなりというのもマズイのですが、余りそればっかりやり過ぎて、「音を聴いて、ジャズを聴かず」になっては、あるいは「音のことが気にかかって、ジャズを聴く方に身が入らない」のでは、元も子もありません。
音のマニアではなく、ジャズを聴くのですから、ある程度のところでオーディオのことは放って置いて、後は気に入ったアルバムをじっくり、たくさん聴く、これが幸せです。
毎日、システムをいじっていては、ジャズを聴く暇がありません。
オーディオのことを「とりあえず置いといて」という状態にまで持って行っておいて、心置きなくジャズを楽しめるのが大事なのではないでしょうか。
オーディオの詳しいことはオーディオ・ファミリーの西本さんへ
《オーディオ・ファミリー》
住所:白山市宮永町229
電話:076-276-0304
今時、こんなオーディオショップは石川県には無いと思います。
オーディオ・ファミリーの店舗は大工集団 欅が造らせていただきました。
(↑チョット、CM)
喫茶 大工集団 欅ではジャズのCDとレコードをかけています。
そこでお客様から
「ジャズを聴くにはどんなオーディオがイイの?」とよく聞かれます。
私には私なりのジャズの聴き方がありますから、一概には言えないのですが、下記の項目は大切です。
では何故閏日を2月29日にしたのでしょうか。
12月32日でも良かったのではないでしょうか。
それは初期のローマ暦では年始は3月1日であり、2月は年末の月であったためなのです。
そのため、年末の2月が日数の調節に使われました。
ローマ暦を改暦したユリウス暦や、グレゴリオ暦でも閏日を置く月を2月としました。
では、日本における閏年の根拠は何なのでしょう。
日本においては、閏年の算定はグレゴリオ暦(西暦)ではなく神武天皇即位紀元(皇紀)によって行うことが法令(明治31年勅令第90号(閏年ニ関スル件))により定められ、現在に至っています。
神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス
但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス
これは、判り易く書くと次の通りです。
1.神武天皇即位紀元年数(皇紀年数)を4で割って、割り切れる年を閏年とする。
2.ただし1. であっても皇紀年数から660を引いた数を100で割って割り切れる年で、かつその結果が4で割り切れない年は平年とする。
まぁ、平たく言えば上に書いた通り、西暦の年が100で割りきれ、かつ、400で割りきれない年はうるう日を入れない、つまり平年とするということです。
次回の4で割り切れる平年は西暦2100年です。
閏年の西暦年は必ず4で割り切れるので、閏年の十二支は子、辰、申のいずれかであることをご存知でしたか。
閏日には面白い伝統が各地にありました。
かつてイギリスでは4年間のうちでこの日だけ女性から男性へのプロポーズが伝統的に公認され、男性はそれを断わることはできないとされていました。
女性にとっては意義のある大切な日でしたが、男性にとっては恐怖の日であった・・・、かもしれません。
2月29日といえば、この日に生まれた人の誕生日はどうなるのだろう?、と話題になります。
4年に一度しか来ない2月29日。
生まれて20年たっても5歳?
民法の「20歳の計算方法」の記載によると、2月29日生まれの人が成人となるのは、閏年以外の年は「28日の満了時」、すなわち3月1日の午前0時0分ということになるのだそうです。
もう一つ、2月29日といえば、オリンピックですよね。
閏年はオリンピックイヤーです。
今日は2月29日、4年に一度の閏日ですよね。
通常の太陽暦では平年は365日ですが、閏年は閏日が挿入されて366日となります。
つまり、1年の日数は365日ではなく365.2422日なので、 4年に1度、2月28日の翌日にうるう日として29日を入れるのです。
ただし、西暦の年が100で割りきれ、かつ、400で割りきれない年は閏日を入れません。
つまり、閏日は400年に97日です。
冬になりお客様から
「ヤギはどうしたの?」
と、よく聞かれます。
雪が降るまでは裏山の草を食べていたのですが、雪が積もってからは皆様から姿を消しましたね。
でも、ごらんのとおり雪の中でもたくましく育っています。
雪の上を歩くのは苦手で、雪が降ってからは殆ど小屋から出ません。
今日のように晴れた日にはしぶしぶ出てきます。
玄関前の雪の上に左の足跡を見つけたお客様が
「熊が出たの?」
と聞かれました。
イエイエ、可愛いヤギの足跡です。
野坂さんは『火垂るの墓』で、骨と皮にやせ衰えた妹に呼びかけている。
「うとうと寝入る節子をながめ、指切って血イ飲ましたらどないや、いや指一本くらいのうてもかまへん、指の肉食べさしたろか」。
それほど妹の節子は飢えていた。
節子だけではない、兄も飢えていた。
たった一人でひもじさに耐えた、兄が哀れでならない。
それでも妹には看取ってくれた兄がいた。
兄には看取ってくれる人さえいなかった。
作者の野坂昭如さんは神戸空襲で孤児となり、敗戦の1週間後に栄養失調で死んだ妹を、一人で火葬にした体験を持っておいでる。
後年「小説ほどかわいがってやれなかった」と語っている。
今の日本で、本物の飢えを知っている人がどれくらいいるだろう。
東京都立川市のマンションで、45歳の母親と知的障害のある4歳の男児の遺体が見つかった。
母親が病気で急死した後、男児は何も食べられないまま衰弱したらしい。
さいたま市のアパートでは、60代の夫婦と30代の息子が、餓死していた。
室内にはまったく食料がなく、一円玉が数枚残っているだけだったという。
飽食に浮かれる世の中の片隅で、誰にも助けを求められないまま飢餓地獄に苦しむ人たちがいる。
日本人は豊かになった途中で、何を見失ってしまったのでしょう。
『火垂(ほた)るの墓』という小説を知っていますか。
アニメと実写版の映画にもなり、テレビでも放送されましたからご存知の人は多いと思います。
この『火垂るの墓』は野坂昭如さんが書かれ、第58回直木賞(昭和42年下半期)を受賞しました。
親を亡くした幼い兄妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わず悲劇的な死を迎えていく姿が描かれています。
読まれた人は誰もが涙を流されるでしょう。
昨年の秋に収穫して毎日小食べてきた大和柿でしたが、昨夜食べたのが最後の1個でした。
あの美味さを味わえるのはまた1年後になります。
これを食べたらもう1年は食べられません。
熟し柿です。
コレが私は大好きなのです。
但し、大和柿でなくてはいけません。
大和柿は渋柿です。
渋柿。
オイオイ、普通は甘柿だろって?
まあ、そう言わないで・・・。
この渋柿が熟すとナントモ甘露、甘露なのです。
(鳥越大日スポーツランド・スキー場)
石川県白山市阿手町にある鳥越大日スポーツランドをご存知でしょうか。
旧の鳥越大日スキー場といえばお分かりになるのではないでしょうか。
2007年に閉鎖されましたが、2010年にNPO法人により鳥越大日スポーツランドとしてオープンしました。
このスキー場が今期でまた閉鎖されようとしています。
スキー人口の減少、市からの補助金・・・、色々問題はあると思うのですが、石川県内でこのスキー場ほど初心者コースを持ったスキー場はありません。
ですから、学校でのスキー遠足、身障者のスキーには欠かせないスキー場なのです。
その鳥越大日スポーツランド・スキー場が今期限りで閉鎖されようとしています。
鳥越大日スポーツランド・スキー場の紹介をさせてください。
リフトが大人1日で2000円という破格の安さの料金です。
併設の宿泊施設1泊2食付きで5000円、ありえない安さです。
リフト料金、宿泊料金、どれをとっても安い、これで大丈夫かというくらい安いです。
レストランもきれいで明るいです。
コースは初心者・お子さま用の超緩斜面が1コース、中級者が快適に滑れる斜度の2コースあります。
小さい子供さん用にはファミリーゲレンデがあります。
斜度も緩やかですぐに一人ですべることができます。
大人は、中級クラスで楽しむことができます。
家族で出かけるにはとてもよいスキー場だと思います。
コースでその他特筆すべきが非圧雪リフト下コースです。
スキー場公認でリフト下を滑らせてくれます。
今まで数多くのスキー場に行きましたが、リフト下を「公認で」滑れるスキー場はここだけです。
コース制限も緩くてコース間のツリーランもOKです。
降雪後の新雪パウダー競争率も低くて「食べ放題」状態です。
センターハウスから見渡せる範囲がゲレンデなので、迷ったりすることはありませんし、子供さんにも安心です。
初心者は右のリフト、上手な人は左のリフトと棲み分けができているので衝突事故も起きにくいのです。
コースは中級者が気持ちよく滑られる斜面で、検定練習にも最適です。
このスキー場は地域の皆さんの手で守っていこう、盛り上げていこうという雰囲気がひしひしと感じられます。
というのは、今ではスキー場はスキーを楽しむ一部の人だけのものとなりましたが、このスキー場は違うからなのです。
子供さん、スキー初心者、学校でのスキー遠足、身障者のスキー等の誰にでも滑れるスキー場だからなのです。
それらの人達が他のスキー場で滑られるコースはありません。
言うなれば『スキー弱者』用のスキー場なのです。
その鳥越大日スポーツランド・スキー場が今期限りで閉鎖されようとしています。
このスキー場が無くなったなら学校でのスキー遠足、身障者達は何処へ行くのでしょう。
それらの人はもうスキーは出来なくなるのではないかと心配です。
白山市に働きかけて、鳥越大日スポーツランド・スキー場が今期限りで閉鎖されないようにしたいものです。
白山市への要望は、『市長への提案メール』でお願いします。
『市長への提案メール』
今の日本人には天皇陛下の大切さを知らない人が多くいます。
それは学校教育での歴史で教えていないからであり、家庭でも戦後の左翼的思想から自虐的な思想が広がり、日本と天皇陛下の繋がりを子供達に教えなかったからです。
もっとも、今になっては教えようにも親たちは知らないのですから子供達に教えようがないのですが・・・。
「日本では天皇陛下が大事だ」というと、「天皇と国は関係ない」と言う人がおいでるでしょうが、日本では天皇陛下が大事なのです。
理由を簡単に書きましょう。
日本の歴史上にも大小の内乱がありました。
その時にどうして治まったのでしょう。
日本の内乱は必ず天皇陛下がいたから治まったのです。
「そんなバカな」と言う人は歴史を知らないのです。
古今東西、内乱が終結するには双方が納得できる強いリーダーが必要なのです。
日本ではそれが天皇陛下なのです。
それ以外にいないのです。
近くの歴史でも、明治維新・太平洋戦争の終結の時を考えてください。
私は右翼なのでしょうか。
とにかく、
天皇陛下の手術が無事成功してよかった。
天皇陛下がご入院先の東京大学医学部付属病院で受けられていた心臓の冠動脈バイパス手術は午後3時ごろに無事終了したと先程宮内庁が発表しました。
無事に成功して安堵しました。
皇居や宮内庁京都事務所などでは、お見舞いの記帳が行われたそうです。
ご高齢のなか、激務をこなされるのは大変なことです。
天皇陛下にも定年制があればいいのではないかと思う。
昨年東北震災があった3月11日には公務に復帰されるといわれているが、あまり無理はしていただきたくない。
健康を第一に考えていただきたい。
まずはロバータ・フラックの「やさしく歌って」をユーチューブでお聴き下さい。
1972年にリリースされたロリ・リーバーマンのオリジナルの「やさしく歌って」はヒットしませんでした。
当時、ロバータ・フラックはロリの雑誌インタビューを読んで、原題の「Killing me softly with his song」というタイトルが気に入り、実際に聴く前にカバーする決意をしたそうです。
彼女のバージョンは大ヒットしました。
こうした直感のすごさも、優れたアーティストの条件なのかもしれません。
これにより、ロバータはグラミー賞で最優秀レコード、最優秀楽曲、最優秀女性ボーカルの部門を受賞しました。
日本ではネスカフェのCMソングとして起用されたことでさらに有名になりましたね。
それよりもロバーヌタ・フラックで驚くのはミュージシャンとなる前の経歴です。
ミュージシャンというと学校嫌い、勉強嫌いというイメージがなきにしもあらずですが、ロバータ・フラックは、音楽も勉強も、まぎれもない“優等生”でした。
何せ5歳ですぐに小学校2年生になるなど飛び級を重ね15歳で高校を卒業したのです。
ピアノのほうも、父親がゴミ捨て場から拾ってきたアップライトで練習するという、あまり恵まれない状況ながら、13歳のころには地元ヴァージニア州のコンテストで2位に入賞するという上達ぶりでした。
高校卒業後は、名門のハワード大学音楽科に特待生として、しかも奨学金付きで入学した天才です。
その大学も3年で卒業してしまったほどですから、まさにスーパー・ウーマンです。
ですから大学を卒業した時にはまだ18歳でした。
その後、彼女は、教師やレストランのピアノ伴奏の仕事をしていましたが、ソウル・ジャズ界の大物、レス・マッキャンに見出されて69年に歌手としてデビューします。
当時はパッとしませんでしたが、「愛は面影の中に」がクリント・イーストウッドの映画『恐怖のメロディ』で使われたことで、なんと発売後3年を経た72年にヒットし、見事全米チャート1位を獲得しました。
これでグラミー賞の最優秀レコード賞を受賞しました。
さらに73年には「やさしく歌って」も全米1位の大ヒットを記録。
これにより、グラミー賞の最優秀レコード賞、最優秀楽曲、最優秀女性ボーカルの三部門で受賞しました。
最優秀レコード賞(Record Of The Year)を2年連続で受賞したのは、彼女のほかにはU2のみです。
天は彼女に二物を与えたのです。
時々、懐かしい歌のフレーズを思い浮かべることがあります。
今朝はロバータ・フラック(Roberta Flack )の「やさしく歌って(Killing Me Softly with His Song)」でした。
さて、今日の話をしましょう。
セロニアス・モンク(Thelonious Sphere Monk)と言ってもジャズが好きな人でなければ彼の名前は知らないでしょう。
彼は自由奔放な演奏で知られるジャズ・ピアニストです。
即興演奏における独特のスタイルと、数多くのスタンダード・ナンバーの作曲で知られています。
彼の手にかかると、スタンダード曲までが独自のリズムとハーモニーに生まれ変わり、別の曲のように聞こえることがあるほどです。
1982年の今日、彼は65歳で亡くなりました。
彼は1951年麻薬所持の疑いで逮捕されました。
キャバレーでの労働許可証を没収された彼は、酒を出す店で演奏できなくなってしまいます。
その為に1957年に再交付されるまでレコーディングに専念せざるを得なくなり、そのことが結果的に多くの名作を生み出すことになったのです。
皮肉なものです。
そのレコーディングの中でも1957年、豪華な顔ぶれと偉大なる失敗でジャズ史に名を残す歴史的珍名盤『モンクス・ミュージック』を発表しました。
ソロの小節数を間違えたモンクが「コルレーン、コルトレーン」と叫び、これに気を取られたアート・ブレイキーがドラムを叩き損ない、ベーシストのウィルバー・ウェアもつられてミスをする様子がそのまま録音されています。
アーティストが間違えたレコーディングがレコードになり、発売される・・・、考えられないことです。
今であれば間違いなくお蔵入りになっていた録音ですが、当時のレコーディング風景を伝える貴重なドキュメンタリーとして、ジャズ・ファンには人気の1枚となっています。
彼の死後、彼の音楽は幅広い聴衆によって再発見され、今日ではマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンなどと並び、ジャズの歴史に於ける偉大な人物の一人に数えられています。
新聞を読むと、都会では某ヨーグルトがインフルエンザの予防になると品切れになり、トマトで体脂肪が減ると論文で発表されるとトマトがストアから消えたそうです。
当地は田舎ですからヨーグルトもトマトも品切れになったと聞いていません。
昨日、金沢のストアへ買い物に行きましたが、ヨーグルトもトマトも売られていました。
金沢も都会ではないのでしょう。
都会に住んでいないことに感謝しましょう。
私は、若い頃、歴史好きの例にもれず司馬遼太郎の著作を愛読していて、出版された全ての作品を読むほどの司馬遼太郎大ファンでした。
特に、「坂の上の雲」は戦国時代や、幕末を中心にした他の多くの著書と違い、明治を舞台としたスケールの大きさに夢中になり、幾度も読み返したものです。
ただ、当時の私の最も好きであった海音寺潮五郎のものと比べて、幾分控えめな印象は否めませんでした。
それというのも、司馬遼太郎は新聞記者からの転身ということもあり、取材や資料に縛られて、海音寺ほど自由な発想の展開や物語の飛躍ができなかったのではないかと思います。
そこが司馬遼太郎の長所でもあり欠点でもあったのですが、学生時代の私は、それに気がつくこともなく、ただひたすら氏の著作を読みふけったものでした。
そして、ある程度年もとり、世間や、人間というものがわかってくるに従い、ある一種の違和感を感じるようになってきました。
彼の小説は、良く取材もし、資料も忠実になぞっているようなのですが、今ひとつ小説という感じがしないのです。
むしろ、新聞や雑誌の記事のような、つまり事実であるようなある一種の硬さのようなものが拭い切れていないように感じられるのです。
これは一体何だろうと思いました。
後に司馬史観と呼ばれる彼特有の歴史に対する理解の仕方が書かれているのです。
それは恐らく、戦争体験をもつ当時の同世代に共通したものの考えかたが底にあり、小説家というより評論家としての素顔がときどき顔をのぞかせるせいなのかもしれません。
さらに良く読んでいくと、その作品の執筆当時は主流であった歴史の解釈の仕方が、最近の新しい資料や、遺跡の発掘などにより、現在では誤り、あるいは疑問視されるようになったことにより陳腐化していることに気がつきました。
このことにより、それまでは何の疑問も持たずに楽しんできたことが、いちいち気になりはじめました。
そして、今まで読んできた司馬遼太郎の著作を読み返してみると、随分と勘違いや、解釈の誤りが目立ってきて、素直に小説そのものを楽しむことができなくなってしまったのです。
とくに、気になったのが、登場人物に対する評価です。
「坂の上の雲」では、乃木大将に対する評価の低さにどうにも納得がいきませんでした。
このなかで、乃木大将は、まるで徒に多くの将兵を無駄死にさせた木偶の坊のように描かれています。
しかし、我が国の歴史において、この乃木大将ほど多くの国民に尊敬され、愛された軍人は他に例がありません。
その何よりの証拠に、日本各地に乃木神社があり、乃木大将は神様として祭られています。
これほど敬愛された乃木希典という人は一体どの様な人だったのでしょうか。
もし、司馬遼太郎がこの小説で描いたように、乃木希典という軍人が、ただ闇雲に兵士を吶喊させるしか能のないぼんくら大将であったなら、例え如何に明治天皇の覚えがめでたくとも、又、如何に長州閥に守られていようとも、これほど国民大衆から愛慕され、尊敬されて、果ては神社に祭られて神となることができるはずがないではありませんか。
歴史上の人物の評価は、その見方によって様々です。
しかし、最も避けなければならないことは、その結果だけをみて今現在のものの見方、価値観で過去の時代を評価することです。
それは、単に現代人の傲慢さです。
明治の日露戦争当時の日本人より、昭和の戦後世代のほうが賢明であると言えるでしょうか。
そのようなことは、誰にも断言できないはずです。
科学技術の面をのぞいて、現代人は我々の祖父、曾祖父の世代の人達に遙かに及びません。
とくに、文化的、内面的教養の高さにおいてはその差は歴然としています。
例えば、もし現在、日清、日露の戦争が起きたとしたらどうでしょう。
瞬く間に、中国、ロシアに打ち負けて、彼らの属国になりさがることは明白です。
北朝鮮や中国からの日本国内の騒ぎのお粗末さはどうでしょう。
北朝鮮のような国にまで馬鹿にされ、それでも気がつかず、巷に職の無い人達が溢れても、相も変わらず飽食と浪費をやめない、それが愚かな現代の日本人です。
一体、この差は何なのでしょう。
とかく、現代日本人は、驚くほど歴史上の人物の実像を知りません。
数年前に書いた宮本武蔵、実はそんな名前の人物はいなかった真田幸村、余りにも偶像化されすぎて真の姿が見えなくなった織田信長等、数え上げればきりがありません。
その原因の最たるものが、所謂歴史小説によるものです。
彼らは歴史小説により違った人物像となってしまったのです。
単なる小説家のたばこのやににまみれた脳みそから出た嘘八百が、歴史的事実として大手を振ってまかり通っているのです。
しかも読者はそれが小説、つまり作り話、ウソであるにもかかわらず、活字となっているせいで史実と思っています。
その欺瞞の最たるものが、いわゆる司馬史観なるものです。
単なる小説であるべきものを、作家本人がなにを勘違いしたものか、いっぱしの評論家を気取り、自分の書いた小説の中で、左右に偏向した思想をもとに過去の人物や歴史的事実に評論を加える。
これほど愚かで無責任な行為はありません。
歴史的な知識を持たない一般大衆にとって、その小説が面白ければ面白いほど、その文中の作者の考えを無批判に受け入れてしまいます。
そのため、読者達はその小説を読んだあとは一体どう考えるでしょうか。
おそらく乃木希典という人物は、ただ闇雲に多くの将兵の命を犠牲にした戦争犯罪人に見えるに違いありません。
以前より司馬遼太郎の乃木大将の評価がおかしいと史実を証拠として批判もされてきました。
そのために所謂司馬史観なるものについての批判が高まってきました。
しかし、いくら、彼の小説の誤りを論破しても、司馬遼太郎の亜流は次から次へと出てきて、それぞれが自分流の珍説奇説を展開してきりがありません。
単なる小説家が、いっぱしの歴史学者や評論家を気取り、己が作品に自分の歴史論を展開することこそ、最も避けなければならないことなのです。
私が憂慮することは、この誤りの多い司馬史観に基づく「坂の上の雲」が、これまた無責任極まるNHKの手によって制作され、放映されたことです。
これにより、我が国の近代史に於ける多くの偉人たちの功績が、誤った形で、あるいは歪曲されて多くの国民の間に定着してしまうことこそ、最も避けなければならないことだと思います。
毎度、毎度、番組の裏に隠されたNHKのイデオロギーにはうんざりする。
殆どの人はそれに気づかずに番組を見ている。
そして知らないうちにNHKのイデオロギーに洗脳されているのです。
公共放送ならば公共放送らしく、特定のイデオロギーは排除して頂きたい。
少なくとも、NHKが公共放送と言うならば、日本を否定しないでほしい。
先月29日に司馬遼太郎史観について書いたところ、いろいろなご意見をいただきました。
本当は司馬遼太郎史観よりもNHKのはなはだいい加減で無責任な姿勢を書きたかったのですが・・・。
それはいずれか書くことにして、もう一度司馬遼太郎について書きます。
何故くどく書くのかには理由があります。
日本人は活字になったものを疑うとうことを知りません。
また、テレビで放送されたことも疑いません。
これは問題です。
洗脳されているのと同じではありませんか。
そこで司馬遼太郎を引き合いに出しているのです。
以前に山田晴通著【「バレンタイン・チョコレートはどこからきたのか」東京経済大学人文自然科学論集-124 】という論文を読んだのですが・・・。
内容は全く覚えていません。
ただ一つ、「バレンタイン(valentine)」の意味には「恋人」もあると記してあったことだけ覚えています。
何故その様な論文を読んだのか、理由さえも覚えていません。
それほど私にはバレンタインデーが縁遠いのでしょう。
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今日は2月14日、バレンタインデーです。
例年この日が近づくと手作りチョコレートのレシピや、流行のプレゼントの紹介、挙げ句にはホテルの紹介等々、なにやら騒がしくなるのですが、今年は静かなのではありませんか。
朝刊を読んでもバレンタインデーの文字は見えませんでした。
夕刊にとんでもバレンタインデーの記事が載るのかもしれませんが。
喫茶 大工集団 欅では商品が売り切れてお客様にお出しできない、ということが無いように在庫には気をつけています。
とりわけ人気商品でオーダーの多いアップルパイには気をつけています。
開業以来アップルパイが売り切れてお客様にお出しできなかったことが2度だけありました。
1度目は先月の11日でした。
そして2度目が今日です。
今日は朝からアップルパイのオーダーが多い日でした。
午後4時、『やばいなー、アップルパイが残り2個だ』。
午後4時30分、『とうとうアップルパイが売り切れてしまった。でも閉店まで残り僅かだからお客様はもう来店されないだろう』。
午後4時50分、「いらっしゃいませ」。
「珈琲とアップルパイを・・・」
「アップルパイ・・・、申し訳御座いません、売り切れてしまって・・・」
「エーッ!! この前も売り切れていたのに・・・」
「エーッ!!・・・では・・・、先日売り切れたときのお客様でしたか?!」
「・・・」
「二度しか売り切れていないのに・・・」
「エーッ!! それじゃぁ・・・二度とも私・・・?!」
喫茶 大工集団 欅が開業して以来、アップルパイが売り切れたことが2回。
それでご迷惑をお掛けしたお客様はお一人。
本当に申し訳ありません。
「事実は小説より奇なり」
本当にそう言うことってありますよね。
屋根雪は今日中に始末するつもりです。
つい先日までお客様から「雪が多いね」と言われると、「ええ、それでも去年に比べれば少ないんです」とお答えしていたのですが、そうとも言えなくなりました。
ご覧のように店の看板は埋まりそうになり、屋根雪は軒先に繋がりました。
今夜から明日の午前中まで雪が降るそうですから、看板は完全に雪に埋まりますね。
「喫茶 大工集団 欅は何処だったっけ?」なんてなるかもしれません。
以前に村の人が笑い話で言っていました。
「56年の豪雪の時、木滑まで歩いて行くと、何処かこの辺が木滑だと思ったのだが家の屋根すら見えない。もう少し行くと小さな看板があった。『雪の下に木滑あり』と書いてあった・・・」
でも、これは笑い話ではなく、本当のことなのです。
今日は建国記念日です。
それなのに新聞には何一つ書かれていません。
トップニュースで書かれているのは『公務員人件費2割削減は困難の認識・岡田副総理』でした。
ナントも世知がない記事ばかりです。
上の写真は何だと思いますか。
出雲大社で2000年に境内で出土した心御柱(しんのみはしら)です。
心御柱は杉の巨木3本を束ねた柱根です。
元々は直径が2mはあっただろうと言われていますが、周囲が腐り今の太さで出土しました。
2012年に国の重要文化財となりました。
この心御柱が奈良市の元興寺文化財研究所で樹脂加工による永久保存処理を行うことになり、今日県埋蔵文化財センター(松江市)から搬送されます。
心御柱は、これまで県埋蔵文化財センターで大型水槽につけて保管されていましが、奈良市の元興寺文化財研究所で今後約5年かけて木の細胞組織に合成樹脂を浸透させ、永久保存処理を施すのだそうです。
大工集団 欅は建築業、しかも木を使った建物を得意としていますので、出雲大社の心御柱にはとても興味がありました。
永久保存されることになり、日本人の魂が保存されるようでとても嬉しく思います。
2000年に出土した宇豆柱(うずばしら=側柱)に続いて、心御柱が出土し、宮司家に伝わる図面通りに見つかったことにより、“高層神殿”が実在した可能性を示しました。
“高層神殿”とは何なのでしょう。
出雲大社は日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の始まりであるという。
その為に出雲大社の高さは、上古時代にはナント、32丈(およそ96m)であったと伝えられています。
ちなみに延享元年(1744年)に作られた現在の本殿は高さは8丈(およそ24m)です。
実はこの本殿、中古代には高さ16丈(48m)だったと言われています。
そんな大昔に高さ50m近い木造建築などあり得ないし、ましてや100mに届くようなものなど妄想の産物だ、という意見もあるのですが、どうやらこれは本当のことだった可能性が高まっています。
言い伝えでは、出雲太郎(神殿)・奈良次郎(大仏殿)・京三郎(大極殿)と言い伝えられています。
つまり、日本では出雲大社が一番高くて、2番目は奈良の大仏殿、三番目が京都の御所が高いと言われてきたのです。
これは、高さに表されているだけではなく、言い換えれば神社が一番で、仏教が二番、天皇さんは三番目だということです。
日本を治めていた天皇さんが三番目なのです。
いにしえの日本人の謙虚な考え方を表しているようです。
2010年に重要文化財に指定された出雲大社境内遺跡の出土品は、心御柱と宇豆柱のほか、心御柱の真下にある杉板の礎板、柱を立てる際の儀式に使い、その後に埋めたとみられる鉄製の手斧(ちょうな)や金具、柱穴のなかから出土した土器などでした。
文化審議会は「壮大な社殿造営の実態をしめす貴重な資料」と評価しました。
ああ、そうそう、出雲大社という名前は意外と新しいのです。
古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたのですが、出雲大社と名前が変わったのは明治4年なのです。
ようやく雪が降り止んでくれました。
写真は喫茶 大工集団 欅の庭にある鳥の餌台なのですが、ご覧のように綿帽子をのせています。
毎日、朝起きると除雪です。
少し疲れてきました。
喫茶 大工集団 欅の建物は屋根雪下ろしをしなくてもいいので助かります。
今日は日曜日なので、村の人達は各家の屋根雪下ろしをされています。
此処に越してきた当時、冬が近くなり「早く雪が降らないかなー」と言うと、村の人達に「バカなことを言うな!、雪が降って何が楽しい!!」と叱られました。
今、彼らの気持ちが少しだけ分かります。
いやいや、計ってくれるのは嬉しいのです。
でも、私の内臓脂肪レベルは・・・、体脂肪率は・・・、BMIにいたっては・・・。
体重計に乗っただけなのに、ナンデそんなことが分かるんだヨ?!
内臓脂肪レベルなんて、私の体の中に入って見たわけでもないのに、ナンデ分かるんだヨ。
・・・・・。
これは体重計ではなくて体組成計なのだそうです。
内臓脂肪レベル、筋肉量、体脂肪率、BMI は全く自信がありません。
でも、不思議なことに体内年齢は54才と表示されるんですよねー。
雪の峠は越えたそうですが、来週の半ばにも寒波が来るそうです。
今の白山吉野の積雪は125㎝です。
体重計が古くなったので買い換えました。
以前に今話題の『体脂肪計タニタの社員食堂』を買ったので、タニタの体重計にしたのですが、こいつが気にくわない。
体を乗せると体重だけではなく、推定骨量、内臓脂肪レベル、筋肉量、基礎代謝量、体脂肪率、BMI までも計ってしまうのです。
ここ2・3日のテレビニュースは雪に関することばかりです。
毎日毎日、除雪をしていて日が暮れました。
気づけば2月になっており、3日、節分です。
あわてて店内の佐藤勝彦さんの絵を鬼の絵に取り替えました。
〔右下が太陽フレア〕
上記のNASAの『Severe Space Weather Events ― Understanding Societal and Economic
Impacts』(激しい宇宙気象―その社会的・経済的影響の把握)と題するこの報告書は、太陽フレアが放出するエネルギーが地球の磁場を混乱させ、強力な電流によって高圧変圧器が故障し、電力網が停止する可能性について検証したものです。
そのような大惨事が起これば、米国での被害額は「最初の1年間で1兆〜2兆ドル」にのぼり、「完全復旧には4年〜10年」を要すると報告書は予測しています。
むろん日本にも被害は及び、地球全体ではとんでもない、それこそ被害額は天文学的な数字となるでしょう。。
今年が太陽活動が極大化する時期と予想されています。
このとき地球の地磁気シールドに、通常になく大きな穴が開くため、太陽フレアに対する地球の防御体制は弱まることになるのです。
「磁気シールドの穴」とは、NASAの磁気圏観測衛星『THEMIS』(Time History of Events and Macroscale Interactions during Substorms)の観測データから判明したものです。
太陽からの磁場線の向きは、11年周期の太陽活動に合わせて変化しますが、太陽からの磁場線が地球の磁場線と同じ方向を向く場合、太陽粒子の層が厚くなり、地球の磁気シールドを通過する粒子の量が20倍以上になるとされます。
1989年の極大期には、激しい磁気嵐がカナダのケベック州の電力システムを破壊し、9時間にわたって停電し、復興に数ヵ月を要しました。
2000年の極大期には大きな被害は報告されなかったが、これは太陽に蓄積されたエネルギー解放が行なわれなかったためで、次の極大期、つまり今年の極大期にはこのエネルギーが解放されて太陽嵐が発生する可能性があると考えられています。
太陽活動の極大期には、爆発現象である太陽フレアが頻繁に起きるそうです。
黒点群とそれを取り巻く活動域では、数10~数100ガウスの強い磁場が作り出され色々な現象が起こっているが、そのクライマックスが太陽フレアの発生なのです。
太陽フレアは高エネルギーの電子、陽子、α粒子、重い原子核などを発生させるそうですが、太陽表面現象にとどまらず地球周辺に、電離層電子密度の急増、デリンジャー現象、地磁気嵐、オーロラなどさまざまな現象を引き起こすそうです。
そのエネルギーは10の32乗エルグもある。
このエネルギーの元は黒点の持つ磁場エネルギーで、磁気リコネクションによって爆発的に解放される、と考えられています。
しかし、まだそのメカニズムは完全に解明されていないそうです。
今月22日にイギリスの中部各地で夜空に広がる緑色のオーロラが目撃されました。
オーロラは、太陽の爆発現象「太陽フレア」などで発生した電気を帯びた粒子が、地球の大気中の粒子と衝突して発光します。
同現象が活発化し観測可能地域がノルウェー北部など北極圏周辺から南に広がったとみられます。
英紙タイムズによると、ロンドンで最後にオーロラが確認されたのは、記録されている限りでは1939年という。
さてさて、今年は不気味な年になりそうです。
マスコミで話題となっている『2012年人類滅亡説』は、マヤ文明において用いられていた暦の一つが2012年12月20日に一つの区切りを迎えることから連想されました。
だから『今年、世界が終わる』
こう聞いたら、マヤ文明の予言の話だと思うかもしれません。
しかし、この恐ろしい予測はマヤの民でなく科学者が行なったものなのです。
司馬遼太郎は日露戦争・旅順攻略の陸軍大将乃木希典を「軍人というのが戦争の専門家であるとすれば、なぜこんな馬鹿な戦争指導したのか、いま考えても薄気味悪いほどの無能さである。」と断言している。
司馬遼太郎は、乃木希典を愚かな軍司令官つまり愚将として描き、旅順要塞攻撃に際して銃剣と刀で夜間出撃していった三千名の白襷隊を乃木による「兵の屠殺」とした。
そして、乃木大将により旅順が陥落したものだから、その乃木大将の「兵の屠殺」が昭和の軍隊に遺伝して、大東亜戦争における各所の玉砕となった、と述べています。
司馬遼太郎によると、乃木大将は何と愚かで罪作りで、日露戦争より四十年後の日本敗戦の原因をつくった男ということになります。
司馬遼太郎がここまで、民族の孤高にして寡黙な燻し銀の如き宝とも言うべき人物のことを悪しざまに言うのだから、私はここではっきり述べておきたい。
司馬遼太郎は、まことに低劣である。
フィクションならフィクションとして書けば罪は少ない。
しかし、司馬遼太郎が書いたのは小説という作り話なのです。
作り話ならば登場人物に特定の固有名詞を使うべきではない。
しかし彼は新聞記者上がり(下がり、崩れ)で、取材もせずに取材したような事実、ドキュメントとして書いた。
従って、罪は深い。
司馬遼太郎が書いたのはろくに資料も調べずに書いた小説という作り話なのです。
『坂の上の雲』というドラマを見て乃木希典という人物を誤解しないで頂きたい。
乃木希典だけではない、このドラマ化された小説に登場する陸軍の秋山好古、大山巌、児玉源太郎、海軍の東郷平八郎、加藤友三郎、秋山真之等々は小説であり、ドラマなのですから、俳優が演じているそのままが実在の人物ではありません、勘違いしないで下さい。
古今東西、国家を救った軍人を名将という。
従って、乃木希典は名将です。
当時の世界も乃木希典は名将であると認めました、。
この定義以外に、司馬遼太郎氏は如何なる定義を用いて乃木を名将ではなく愚将というのか。
白襷隊のように、命令によって兵を死地に赴かせたからでしょうか。
馬鹿を言うな、兵を死地に赴かせる命令を発する者を司令官というのだ。
戦争とは、そういうものだ。
司馬遼太郎が好きだったレーニンも旅順陥落を絶賛していた、このことを司馬遼太郎は知らなかったのではないか。
それから、司馬遼太郎は、我が国の連続性を意識するよりも、わざと我が国の歴史を切断させて、「坂の上の雲」の明治と「愚劣な軍国主義」の昭和を対比させたものだから、明治だけを描いて昭和は描けなかったのでしょう。
司馬遼太郎は、自分と友達と同世代の人が生きた昭和を、他国を観るような嫌な視線で、嫌なところだけを強調して貶めた。
この観点から見れば、司馬遼太郎の『明治という国家』とか『この国のかたち』などの自著の命名は鼻について仕方がない。
司馬遼太郎は彼が書いた小説によって、後の人達に歴史を間違えて教えている。
それは彼が意図したことなのでしょう。
昨年の春から年末までの数回にわたりNHKが司馬遼太郎の『坂の上の雲』を放送しました。
それがお客様や友人達との話で何度か話題となりました。
それで勘違いをしている人もいるので、もう一度『坂の上の雲』と司馬遼太郎について書きます。
『坂の上の雲』は司馬遼太郎が書いた小説、つまり作り話なのです。
NHKの『坂の上の雲』はその小説をドラマ化したものなのです。
つまり、史実ではありません。
ところが、少年はそれを食べるのでなく、避難所の片隅に設けられたみんなで共有の食料置き場に持って行き、もとの場所に戻ってきたという。
記者はいたく感動する。
帰国すると、「こういう子供はベトナムにはいない。」と報道した。
この記事が大変な反響を呼ぶ。
かつて、ドラマ「おしん」が大人気になったお国柄ですから、ベトナムからの義援金は100万ドル(約8000万円)にのぼったが、このうち、「バナナの少年にあげてください」という条件つきが5万ドルもあったそうです。
ベトナム人記者は「少年は大変けなげな日本人の美質、DNAをきちんと受け継いでいる。将来の日本を支える若い人たちのなかに、こういう子供は少なくない。上に立つ政治家も心のなかに美学を持ってほしい」と訴えている。
悲劇と苦難のもとでも失われない日本人の民族的な強じんさを、一少年の小さな行為から教えられた思いです。
この話を聞いたとき、3・11は『第2の敗戦』とも言われますが、太平洋戦争の敗戦の時にあった同じような話を思い出しました。
それは、五百旗頭真防衛大学校長がジョージ・アリヨシ元ハワイ州知事から聞いたエピソードで、何かの雑誌か新聞で読んだ話でした。
敗戦の1945年暮れ、占領軍の若い将校だったアリヨシは、東京・有楽町の街角で少年に靴磨きをしてもらった。
寒風のなか、小柄な少年が懸命に心をこめて磨く。
アリヨシは少年にバターとジャムを塗り込んだ白いパンをプレゼントした。
少年は頭を下げながらそれを袋に収める。
「どうして食べないの」
「家に妹がいるんです。3歳で、まり子といいます」と答えた。
少年は7歳だという。
彼もまたお腹が減っているに違いない。
それなのに・・・。
アリヨシは感銘を覚えた。
五百旗頭に、「世界のどこの子供がこんなふうにできるだろうか。モノとしての日本は消失した。しかし、日本人の精神は滅んでいない。あの時、日本は必ずよみがえる、復興すると確信した」と語ったそうです。
このパンのような少年が今の時代にいるだろうかと思っていましたが、いたんですよね。
パンはバナナに変わり、時代が変わっても日本人の精神は受け継がれていました。
今の日本には明るい話がありませんね。
野田佳彦首相も、24日の施政方針演説で、「この国難とも呼ぶべき危機に立ち向かいながら・・・」と危機意識を前面に出していました。
そんな折だけに、2人の無名の少年がみせたバナナとパンの物語を思い出して大きな救いとなりました。
なにも、あきらめることはない。
震災された人と言えば、谷内正太郎元外務次官が『東日本大震災の最中、日本外交を考える』と題して講演したなかで紹介された次の話は心にしみました。
3・11からまもなく、1人のベトナム人記者が取材で被災地に入った。
避難所で少年にインタビューする。
少年は津波で両親を亡くし、激しい寒さと飢えで震えていた。
一つのおにぎりを兄弟で分けて食べるような状況だった。
記者は見かねて少年に自分のジャンパーを着せかける。
その時、ポケットから1本のバナナがポロッとこぼれ落ちた。
記者が、「バナナ、欲しいか」と問うと、うなずくので、手渡した。
昨日は除雪に手間取ってしまい、喫茶 大工集団 欅はとうとう営業が出来ませんでした。
この様なことがないように、除雪には気を使っているのですが、ご来店されたお客様には申し訳ありませんでした。
それにしてもよく降りました、白山吉野の現在の積雪は1mです。
勿論、道路は除雪されていますから安心してお越し下さい。
今回の寒波は強力ですね。
これからの1週間もマークが並んでいます。
東北もマークです。
震災された人達はどうしておいでるでしょう。
話は変わりますが、
醍醐天皇が菅原道真を太宰権師に左遷したのは901年の1月25日だったそうです。
こんな寒い冬だったんですね。
この折り、菅原道真が京の都を去る時に詠んだ
東風(こち)吹かば
匂ひをこせよ 梅の花
主なしとて 春な忘れそ
は有名ですよね。
時節柄受験の時期であり、各地の天神様や太宰府天満宮の菅原道真に合格祈願した人も多いのではないでしょうか。
菅原道真が太宰権師に左遷した時の位は、正三位、権大納言・右近衛大将如元でした。
ところが、死後90年以上経って、正一位、左大臣を追贈され、その後にも官職最高位の太政大臣までを追贈されました。
これは菅原道真の死後、京には異変が相次いだからです。
と、書いても分かりませんよね、具体的な事象を書きましょう。
まず道真の政敵藤原時平が病死。
醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨去。
次いでその息子で皇太孫となった慶頼王が病死。
さらには朝議中の清涼殿に落雷。
昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くが病死。
醍醐天皇も崩御。
これらを道真の祟(たた)りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行ったのです。
道真の子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返されたそうです。
日本には祟りの考えがあります。
詳しくは井沢元彦著『逆説の日本史 2古代怨霊編 - 聖徳太子の称号の謎』をお読みください。(←この逆説の日本史シリーズはお奨めです)
では、何故菅原道真が学問の神になったのでしょう。
菅原道真が優れた学者であったことから天神様は「学問の神様」とされたのだそうです。
あぁ、「天神様」とは菅原道真のことです。
菅原道真の無実が証明され、「天満大自在天神」という神の位も贈られ、「天神様」と崇められるようになったのだそうです。
外はシンシンと雪が降っています。
木々の枝に積もった雪が見る見るうちに増えています。
空からゆっくりゆっくり下りてくる雪を見ていると体が床から浮くような不思議な感覚になります。
何もかもが白一色になってゆきます。
これからもっと降り続くと白以外の色は無くなります。
これって、考えてみると怖いですよね。
外は雪が降るほど寒いのに、家や店の中では暖かく過ごせます。
感謝しなければいけませんね。
雪融けでもう一枚写真を載せます。
どうしてこの様に融けたのでしょう。
左側が南方なので左側から融けるのは分かるのですが、(少し見にくいのですが)真ん中の雪が融けて穴が空いています。
風のせいなのでしょうか・・・。
屋根を吹き上がった風が作りだした穴なのでしょうか。
この様な所に住んでいると、自然は時々不思議なものを見せてくれます。
店の駐車場を見ると、陽が当たっているところは既に融けていることにお気づきでしょうか。
暫く地面を見ていると、融ける、融ける、見る見るうちに雪が融けていきます。
北風と太陽ではありませんが、陽のパワーはすごい。
天気予報では昨日の午後から1週間、(乾雪)や
(雪)や
(曇り時々雪)のマークが連続して出ています。
当然今朝も雪が積もっていて『除雪しなければ』と起きたのですが・・・、ほんの白粉をはたいた程度でした。
栃乃洋は歴代7位の幕内在位81場所を務めたことも自慢できるでしょう。
でもそれよりも、曙、若乃花、武蔵丸、朝青龍の4横綱から各3個、合計12個の金星を挙げました。
この記録は安芸乃島(金星16)に次ぐ史上2位です。
12個の金星を挙げたことを石川県人として誇りに思います。
ご苦労様でした。
栃乃洋の引退で石川県出身の関取(十両以上)は1人もいなくなりました。
先場所幕下東7枚目だった栃矢鋪は3勝4敗、幕下西19枚目 だった齊心は5勝2敗でした。
石川県出身の力士、ガンバレ。
今日から1週間の天気予報はですね。
車の運転に気をつけてご来店下さい。
元関脇で東十両8枚目の栃乃洋(37)=本名・後藤泰一、石川県出身、春日野部屋=が22日、現役引退し、年寄「竹縄」を襲名しました。
今後は部屋付き親方として後進の指導に当たるそうです。
栃乃洋は記者会見で「関取の地位が維持できなくなった。精いっぱいやってきたので後悔はない」と16年間の土俵生活を振り返った。
石川県七尾市出身の栃乃洋は拓大で学生横綱となり、96年初場所に幕下付け出しで初土俵を踏みました。
左下手投げを武器に97年夏場所で新入幕、01年春場所には新関脇に昇進した。
友人の拓史が昨日白川郷へ行き飛騨牛を買ってきてくれました。
彼は飛騨牛を買いに白川郷へ行ったのではなく、合掌造り集落のライトアップの写真を撮りに行ったのでした。
世界遺産の大野郡白川村の合掌造り集落のライトアップが昨日から始まったそうです。
午後から雨が降り、もやがかかったそうですが、夕闇の訪れとともに集落にオレンジ色ライトがともると、霧が立ち込める中、合掌造り家屋の並ぶ雪景色の集落が幻想的に浮かび上がったそうです。
白川郷の冬のライトアップは一年間で7日間しかなく、この貴重な風景を見ようと全国から、ものすごい数の観光客が集まるそうです。
彼が撮った写真を見せて貰うと幻想的な白川郷が撮されており、感動ものでした。
(上の写真は拓史が撮ってきた白川郷です。このページに載せるために加工しました。もっと大きく載せれば良さがより分かっていただけるのですが・・・。)
それから暫く、デジタルカメラ・・・、とは言っても私が持っているようなバカチョンのデジカメではなく、一眼レフのマニアが持っているデジタルカメラの説明をしてくれました。
すごいんですね、カメラでいろんな設定が出来ていろんな写真が撮れるのです。
機械物は何でも同じなのでしょうが、(オーディオもそうなのですが)いくら高額な良い機会を持っていても、使う人の技量で結果は全く違います。
高額な商品を持っているだけで自慢しているようでは単なる機械の収集家なのです。
この世で自然以外で作られた物は、機械が作ったのではなく、すべからくその機械を使って人が作り出したのです。
優勝額は1909(明治42)年の個人優勝制度制定と同時に国技館に飾られることになり、1937年の春場所から毎日新聞社(当時は前身の東京日日新聞社)が制作、贈呈しているそうです。
国技館から日本人の優勝額がなくなるのは勿論初めてです。
これでは国技館とは言えませんね。
では、これから大相撲優勝額クイズをしましょう。
Q 優勝額は何枚飾られているの?
A 国技館の天井近くの壁面に東西南北に各8枚、計32枚です。
1、5、9月の東京での本場所を前に最も古い2枚が外され、直近の優勝額2枚が新たに掲げられます。
今場所の前に06年の初、春場所の額が外され、昨年の秋、九州場所の額に差し替えられました。
Q 額の大きさは?
A 縦317センチ、横226センチで重さは約80キロです。
引き伸ばした写真を元に、彩色家が油絵の具で色をつけたもので、写真ではありません。
取り外された額は、力士を通じてゆかりの土地や出身校、後援者などに寄贈されたりします。
また、引退して親方になった後に自分の相撲部屋の玄関などに飾ったりもします。
天皇賜杯や優勝旗は日本相撲協会に返還しますが、優勝額は取り外された後は力士本人の物となります。
優勝者には大事な記念品になるようです。
Q それにしても、随分日本人が優勝してないんですね。
A 栃東の額は本来なら昨年の秋場所前に外されるはずでした。
しかし、昨年2月に八百長問題が発覚し、春場所が中止、夏場所も通常開催されなかったため、この2場所の優勝額は作られませんでした。
栃東の額が外されるのも延期されたのですが、それでも新たな日本人の優勝力士は現れませんでした。
今年初場所時点で国技館に掲げられる優勝額の内訳は、モンゴル出身の白鵬20枚、横綱・朝青龍9枚、大関・日馬富士2枚、そしてブルガリア出身の大関・琴欧洲1枚。
最も古いのは06年夏場所、当時大関だった白鵬の初優勝時のものです。
優勝額は、外国出身力士が土俵を席巻する角界の現状を如実に映し出していますね。
大相撲初場所は13日目の昨日、エストニア出身の東大関把瑠都が初優勝した。
外国出身では9人目の優勝力士となったそうです。
それよりも、今場所前に新旧の優勝額の入れ替えがあり、06年の初場所を制した大関・栃東の額が取り外され、代わりに昨年の秋場所優勝の横綱・白鵬の額が掲げられました。
日本人力士の優勝はこの時の栃東が最後で、以後の優勝者は全て外国出身力士です。
これにより国技館から日本人の優勝額が無くなったのだそうてす。
2012年1月20日 |
チュニジアの“ジャスミン革命”によってベン・アリ長期独裁政権が倒れ、エジプトに飛び火しました。
リビアでも、カダフィ大佐による42年にわたった独裁体制が崩壊しました。
イエメンでも独裁者だった、サーハレ大統領が追われた。
危機がバーレインや、シリアにも拡がっています。
欧米のマスコミは「アラブの春」とか、「アラブ民主革命」といって、さかんに喝采しました。
これに日本の新聞やテレビも追従しました。
私はこれを「民主革命」と呼んで囃し立てるのは誤っており、中東はアラブの民衆にとっても、先進諸国にとっても、状況が革命前よりもかえって悪くなるだろうと考えています。
素人考えですから批判されるでしょうが、そうとしか考えられません。
アラブ世界では独裁体制が、イスラム原理主義を敵視して弾圧してきました。
それらの独裁体制は、みな宗教色が薄い世俗的な政権でした。
イスラム原理主義は、イスラム教が7世紀に生まれた時の厳しい戒律そのままの政治を行おうとするものですが、今日のイランがそうです。
アフガニスタンがタリバン政権のものにあった間もそうでした。
だから彼らはバーミヤンの仏像さえも破壊したのです。
いま、アラブ世界において世俗主義とイスラムとの間の戦いの幕があがったのです。
“民衆革命”後に、チュニジアと、12月にエジプトで行われた自由な選挙では、イスラム原理主義政党が合法化されたために、最多議席を獲得しました。
11月のモロッコで行われた選挙も同じことでした。
リビアでは、カダフィ独裁政権が国民に、多くの恩恵をおよぼしたのは事実です。
石油収入を使って1人当たり国民所得が大きく伸び、教育水準が向上し、女性が解放されて社会進出が促されました。
カダフィ政権は独裁政権でしたが、140以上の部族に分かれて抗争していた国を1つにまとめていたのです。
先進諸国は自国との取引が上手くいっているときは独裁政権であっても何も言わなかった。
しかし、カダフィ政権が突出してきたために独裁政権であることを理由に批判し始めました。
エジプトは最大のアラブ国家です。
アラブ世界でもっとも大きな影響力を持っています。
オバマ政権はムバラク政権のエジプトが、アメリカが中東におけるもっとも信頼する盟邦だったのにもかかわらず、「民主革命」がエジプトに波及すると、エジプトの「民主化」が望ましいといって見放した。
エジプトは1952年に陸軍のナセル中佐がクーデターによって王制を倒した後に、昨年まで一貫して軍事政権のもとにありました。
軍部はムバラク政権が倒れると、最高評議会をつくって、新憲法の制定のよって民政に移管するまでといって、暫定的に権力を掌握していますが、まだ実権を手放すのを躊躇しています。
これまで、中東からイランまでイスラム圏には、民主主義国家が1つとして存在していません。
もともとイスラム教は、宗教と政治が一致した政治を行うことを定めており、宗教権威に絶対に服従することを求めています。
東南アジアの“南洋型”のイスラム諸国を例外にして、イスラム教は民主主義になじまないのです。
“アラブの春”は民衆の経済的な不満から起ったもので、民主主義とかかわりがありません。
つまり“アラブの春”が、“イスラムの春”になろうとしているのです。
今年、イスラエルがイランの核施設を除去するために、攻撃を加える可能性が相当に高い。
そうなれば、地域戦争が起こります。
イスラエルはイランが核兵器を手にしたら、民族絶滅の危機に直面すると判断しています。
ユダヤ民族はナチス・ドイツによる“ホロコースト”を、今でも生々しく記憶しているのです。
サウジアラビアはイランの宿敵ですから、イスラエルの行動を暗黙に支持するとみられます。
サウジアラビアはアメリカがムバラク政権を裏切ったために、アメリカに憤っています。
中東ではイスラム教主流のスンニー派と、傍系のシーア派の抗争が激化しています。
両派は歴史を通じて、犬猿の仲です。
イランはイスラム圏で唯一つのシーアの大国であって、サウジアラビアをはじめとするスンニー諸国によって恐れられています。
つまり、中東では独裁政権が倒れても民主化はしません。
イスラム原理主義となるだけなのです。
だから、中東が世界の安定を、激しく揺さぶる震源地になってゆく可能性が高いのです。
友人達と話をしていて気づいたことがあります。
以前から何かおかしいと思っていたのですが、それがハッキリと分かりました。
中東の独裁体制が崩壊していますが、それにより民主化すると思っている人がいる。
・・・ということです。
果たしてそうでしょうか。
この様な無責任な「ウィキリークス」がこれからの人生と命を賭けて内部告発を行った人達の実名を公表したのです。
その後、ウィキリークスは資金不足のため、情報公開活動を一時停止する予定であることを明らかにしました。
まだまだこの様なことが起こるのでしょうね。
そう言えば、昨年の秋に内部告発サイト「ウィキリークス」が、保有する約25万件の米外交公電の全てを未編集のままネット上で公開しました。
情報提供者の実名などが明らかになり、危害が及ぶ可能性があるにもかかわらずです。
ガーディアンやドイツのシュピーゲル誌などウィキリークスと協力関係にあったメディアでさえもウィキリークスの未編集公電の公開を非難する共同声明を発表しました。
ウィキリークスは未編集公電を公開すべきかどうかを短文投稿サイト「ツイッター」のフォロワー(読者)に問い掛け、100対1の割合で公開賛成派が多いとしていました。
自分のこれからの行動を「ツイッター」で問いかけ、しかもそれを正当化したのです。
今時、分厚い百科事典をめくって調べ事をする人はいないのではないでしょうか。
「ウィキペディア」が正しいかどうかは別にして、手軽に、場所も取らずに、関連事項さえも直ぐに調べられるのですから。
ただ、オンライン違法コピー(海賊行為)防止法案を後押しする音楽・映画業界の内情も理解できます。
CDが売れなくなったのはオンライン違法コピーが原因なのですから。
どうやら、音楽・映画業界とサイト運営企業の対決という構図になりそうです。
反対派のサイト運営企業は、法案が技術の発展を阻害し、言論の自由の制限につながる可能性があると主張しています。
アメリカの前にイタリア語版「ウィキペディア」サイトが5日、閲覧サービスを停止しました。
プライバシー侵害の申し立てがあった場合、サイト管理者が48時間以内に内容を訂正しなければならないとの条項を盛り込んだ法案を、イタリアのベルルスコーニ政権が国会に提出したことへの抗議でした。
ベルルスコーニ首相はこれまで、捜査当局の盗聴捜査から明らかになった買春疑惑などを新聞などにすっぱ抜かれ、政治的に窮地に追い込まれていました。
法案は予備的捜査段階での盗聴内容の報道を規制することを狙いとしており、その一環でメディアも含むサイトにこうした訂正を義務付ける規定が盛り込まれたのです。
これに対し、ウィキペディアのイタリア語版サイトは、申し立てに対して抗弁ができないことや、第三者機関による審査がないことを問題視して「サイトの中立性と自由が脅かされている」と訴えたのです。
これからもこの様なオンラインについての紛争は起きるでしょうね。
インターネット上の百科事典「ウィキペディア」を利用している人は多いのではないでしょうか。
「ウィキペディア」を運営するウィキメディア財団は日本時間16日午後2時から24時間、英語版ウィキペディアの閲覧サービスを停止しました。
米議会で審議中のオンライン違法コピー(海賊行為)防止法案に抗議することが目的でした。
同財団は「法案が通過すれば自由で開かれたインターネットが深刻な打撃を受ける」と指摘している。
他の一部ウェブサイトも法案に反対してサービス停止を計画中だそうです。
いうなればストです。
ダカールラリーは、アフリカに魅了されたフランスの一青年、ティエリー・サビーヌによって壮大なサハラ砂漠への挑戦として1979年から開催されました。
現在では世界一過酷なラリーとして知られ、クロスカントリーラリーの最高峰といわれています。
2008年1月の第30回大会までは、舞台はヨーロッパとアフリカでしたが、通過国となるアフリカでの政情不安を理由に、2009年大会から舞台は南米へと移されました。
南米での開催において4回目を迎えるダカールラリー2012大会は、前大会のルートを大幅変更しました。
アルゼンチンのマル・デル・プラタをスタートし、チリのアタカマ砂漠を抜けてゴールはペルーの首都リマを目指していました。
ダカールラリーについて長々と書きましたが、私はダカールラリーについて書きたいことが一つだけあるのです。
それはランドクルーザーとパジェロについてです。
三菱はパジェロで2001年から2007年まで7年連続総合優勝を飾るなど、2011年までに12回の総合優勝を勝ち取りました。
でもこれはワークス車での参戦であり、パジェロとは言うものの市販されているパジェロではありません。
ランドクルーザーはトヨタ自動車(実際のチーム運営はトヨタ車体が行う)が市販車無改造クラスに参戦しており、1995~2004年までに優勝7回、2005年~2011年まで6連覇中でした。
市販車ではない、どの様な改造をしても良いワークス車の優勝と、改造無しの市販車の優勝とでは、我々消費者としては全く見方が変わりますよね。
パジェロが『ダカールラリー優勝』と大々的に宣伝しても、改造をしたワークス車での優勝では・・・。
では、市販車で改造無しのランドクルーザーは何故『ダカールラリー優勝』と宣伝しないのでしょう。
私は実際に今までランドクルーザーとパジェロを乗ってきましたが、この違いは明らかで、今でもランドクルーザーに乗っています。
トヨタ車体は、ダカールラリー2012アルゼンチン~チリ~ペルー(通称パリダカ)にトヨタの『ランドクルーザー200』のディーゼル車で参戦したチーム・ランドクルーザー・トヨタ・オート・ボディの1号車がクラス準優勝したと発表しました。
今大会は4輪車部門の完走率が50%を切る厳しいレースでしたが、ランドクルーザーの1号車が市販車部門ディーゼルクラス2位、市販車部門2位、総合25位となった。
準優勝とはランドクルーザーらしくない。
というのは6連覇中だったからです。
ただ、このランドクルーザーチームはラリー車の燃料に廃食油から精製したBDF(バイオディーゼル燃料)を使用し、BDF100%で参戦したのでした。
新潟県内で、公共施設や商店にある障害者らの専用駐車場利用者に許可証を発行・提示してもらう「県おもいやり駐車場制度」が始まった、と新聞に載っていました。
障害者用スペースを健常者が使うことを防ぎ、有効利用につなげるのが狙いです。
対象は、身体障害者や高齢者、妊産婦で、駐車時に利用証を車内のミラーなどにぶら下げて、許可を受けていることが分かるように掲示するのだそうです。
障害者用駐車場は、車のドアを全開しないと乗り降りが出来ない障害者にとって乗り降りがしやすいように幅が広くとってあり、店舗入り口付近の便利な場所にあります。
その為に写真のような良識障害者は障害者用駐車場に駐車するのです。
身体障害者らが乗用車に貼る障害者ステッカー(車いすステッカー)は、市販されており、誰でも購入可能で、ステッカーさえ貼ってあれば障害者用駐車場に駐車しても疑われることはありません。
この様な不埒な良識障害者がいるから、新潟県のように許可証を発行しなければならなくなるのです。
これにも行政の費用がかかります。
良識障害者がいなければこの様な無駄な費用は発生しないのです。
シルバーシートに座っている元気な人。
この様な人も良識障害者でしょう。
そもそも良識があれば譲り合いの心で、シルバーシートなどは必要ないと思います。
そうそう、以前に阪急電鉄が「シルバーシートの全席拡大」に踏み切った事を思い出しました。
シルバーシートそのものがうまく機能しないなかで、「いっそやめれば」となったそうですが、そうではなくて「シルバーシートの全席拡大」となったことに拍手をした覚えがあります。
「シルバーシートの全席拡大」と言えば大層なことをするようですが、単純にそれこそ人の本来の考え方であり、常識だと思います。
人は良心に従って、当たり前のことを当たり前に行っていれば、大抵のことはトラブル無く、無駄な費用も発生しないものですよね。
左の写真は何処か可笑しいと思いませんか。
障害者用駐車場に障害者が乗っているとは思えない、元気な車が駐車しています。
スーパーなどへ行くとこの様なことが多々あります。
きっとこの様な人は良識障害者なんでしょうね。
調べてみると小正月の朝には小豆粥を食べる習慣があったそうです。
古くは『土佐日記』や『枕草子』などにも、小正月に小豆粥を食べたことが記されているそうです。
さて、子供の頃には小正月の1月15日に左義長をしました。
田圃に竹を立てて、子供達が町内の家々から集めた藁を周りに集めて、門松や注連飾り、書き初めを燃やしましたね。
書き初めが燃えて空高く上がると字が上手くなると言われましたよね。
また、左義長の火でお餅を焼いて食べると風邪をひかないとも言われました。
白山吉野へ引っ越してきてからは近くで左義長をしていないので、しめ飾りなどは薪ストーブで燃やすようになりました。
皆さんはしめ飾りなどをどの様に片付けておいでるのでしょう。
又、1月15日は1999年までは成人の日でした。
着飾った娘さんたちを見ると、『あの娘さんも成人なんだ』と思ったものです。
以前は何かと行事があった1月15日の小正月でしたが、今は左義長も成人式もなくなり寂しい日となりました。
でも、石田さんのお陰で 小正月の朝に小豆粥を食べることがでました。
今日は月15日、小正月ですね。
以前に大工集団 欅で家を改築して頂いた石田さんの奥さんから朝に電話があり、「今日は小正月だから小豆粥を食べなければならない」と言われた。
小正月に小豆粥を食べたことがなかったので「そうなんですか」と答えたところ、わざわざ持ってきてくれました。
有り難い。
ところで、昨日の新聞に最新の発電コストが出ていましたが、意外なのに驚きました。
(1kw当たり)
原子力 8.9円
石炭火力 8.9~9.1円
石油火力 35.5~37.1円
LNG火力 14.4~10.8円
風力 9.9~17.3円
大規模太陽光 30.1~45.8円
水力 10.5円
なのだそうです。
原子力については従来は5~6円とされていましたが、事故費用の上乗せもあり8.9円になったそうです。
ここで驚いたのは太陽光発電です。
30.1~45.8円もするのですね、しかも大規模太陽光発電なのに・・・。
小規模の家庭用太陽光発電は55.7~72.1円だそうで、経済的に合うことはありません。
しかも、今時の白山吉野は雪が屋根に積もっており、発電はおぼつきません。
そんな記事を読んでいて、去年の東日本大震災後の統一地方選挙に「4年間で200万戸の太陽光パネルの設置」を公約した神奈川県知事候補者がいたのを思い出しました。
前回の衆議院選挙の民主党と同じで、4年間で200万戸とは普通の社会ならば詐欺師的数字でした。
でも、その候補者が当選したのです。
調べてみました、どれくらい設置したかを。
就任5ヶ月で8200戸でした。
知事は当選後に「4年間で55万戸」と公約を訂正していましたが・・・、神奈川県民の皆さんには申し訳ありませんが、とてもとても無理でしょうね。
大工集団 欅は建築業です。
太陽光発電の設置も当然行っています。
今時はお客様が太陽光発電の設置を希望されることが多くあります。
その時には、投資金額には見合わない事をお伝えします。
但し、太陽光発電によりエコ生活に参加する意義はあると思います。
ハッキリ申し上げて、経済的にだけ言うならば、太陽光発電が価格として合うものならば、もうとっくに日本中の家庭の屋根に太陽光発電のパネルが乗っていたはずです。
それが、太陽光発電が1970年代に開発されて、今となってもこの普及率であることを考えても経済的に見合わないのです。
こんな事を書いたら、「大工集団 欅は自然派ではない」とお叱りを受けるのでしょうか。
福島の原発事故から新聞に放射能についての記事が載らない日はありません。
では放射能とは何なのでしょう。
私も少しは知らなければと思い本やネットで調べていましたが、・・・やめることにしました。
さっぱり分からないからです。
分かったことは、日常生活に於ける物質とは異次元の物であるということだけです。
偉い科学者の知識人達が今後のことを考えているのだから、己の分際を知り『放射能は分からないもの』とすることにしました。
「モダン・ジャズ・ピアノの父」と言われるバド・パウエル(Bud Powell 本名:Earl Rudolph "Bud" Powell 1924.9.27~1966.7.31)。
今日では標準となった「ピアノ+ベース+ドラムス」というピアノ・トリオの編成は、パウエルが一般化させたものであることからもわかるように、すべてのモダン・ジャズ・ピアニストに影響を与えたと言っても過言ではないほどの偉人です。
1947年の1月10日、パウエルはドラムにマックス・ローチ、ベースにカーリー・ラッセルを起用して初のリーダー・セッションを行ないました。
アルバム『バド・パウエルの芸術』にはその演奏と53年の演奏が収録されていますが、特に前者はどんなリスナーをも無条件に圧倒する、ジャズ・ピアノ・トリオの究極の演奏と言えます。
パウエルは破滅型天才で、好不調の波は大きく生活はボロボロ、42歳の若さで亡くなってしまいました。
昨夜『バド・パウエルの芸術』というレコードをライナーノーツを読みながら聴いていると、『明日はコレを書こう』と決めました。
何を?
それは・・・、ある意味でジャズにとって歴史的な日となりました。
そんな授業料を払ったせいで今では丸太買いで見落としは無くなりました。
人は高い授業料を払って、痛い目にあって成長するんですよね。
でも、最近はそんな授業料を払わなくても良くなったようです。
「えっ、ウソだったの?」――。
飲食店の人気ランキングサイト「食べログ」の“情報操作”にアキれた人もいるでしょう。
「食べログ」は一般人が飲食店の良し悪しを投稿するサイトで、月間の利用者数は3200万人にのぼるそうです。
このサイトを見れば、自分で授業料を払わなくても、美味しい店を見つけることが出来るのです。
ところが同サイトを運営するカカクコムが調べたところ、好意的な投稿や順位の上昇を請け負う見返りにカネを請求する“やらせ業者”がランキングを操作していることが判明したそうです。
業者は39社にのぼるという。
実はこうしたイカサマ手口はほかにもあります。
よく聞くのはテレビのグルメ番組です。
“店をテレビで紹介するから協賛金を出して欲しい”という。
女性向け月刊誌などでも「○○町のおいしい店特集」といった記事を見かけるが・・・。
パソコンという便利な物が出来て、インターネットという情報が氾濫している。
Aというサイトでは○なのに、Bというサイトでは×になっている、そんなことはしょっちゅうです。
どれが本当なのか分からない。
そんな今だからこそ、やはり信じられるのは自分だけなのです。
痛い目にあっても、高い授業料を出しても、それらは無駄にはなりません。
自分への投資として処理しましょう。
みなさんは「授業料が高くついた」経験をしたことはありませんか。
私は若い頃に何度もあります。
丸太の入札には何度も高い授業料を払いました。
一番高く付いたのは、入札で落札した太さ5尺6寸(約1m70cm)の栃を堺の製材所まで持っていって製材したところ、中がウロで・・・。
製材所の社長が「それでも周りは一筋木でイイ物だ」と言ってくれたのですが、あまりにもガッカリして、腹が立って、そのまま置いて帰ってきた事があります。
高く付いた授業料でした。
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今年は内外の指導者論が一段とにぎやかになる。
米中露仏韓台でトップの改選・交代が行われ、日本でも民主、自民両党の党首選が秋に予定されているからだ。
暮れのあるパーティーで耳にはさんだ次の話は、指導者論の前座のようなエピソードである。
昨年11月、麻生太郎元首相と高級官僚OBが韓国に招かれ、シンポジウムに参加した時だ。
全斗煥時代のバリバリの反日論客が登場し、「日韓関係はよくない。日本は『竹島なんかくれてやる』と言えばいいじゃないか」と挑発した。
麻生が応じる。
「韓国も大変だろう。ひとつ、日韓で合意して、竹島を爆破したらどうか」
「・・・?」
「ただし、これは、韓国の専門家に聞くと、30年前に田中角栄さんが言ったことだ」
田中角栄に似つかわしい話、と思いながら聞いた。
ところで、リーダーの力量は首脳外交で試されることが多い。
戦後日本でも、対日講和、日ソ復交、安保改定、沖縄返還、日中正常化、ロン・ヤス関係、電撃訪朝などで首相の名前が残る。
なかでも、田中角栄首相によるユニークな野人外交の印象が強い。
1972年9月、北京での日中正常化交渉。
初めて周恩来・中国首相と人民大会堂で向かい合った時、田中角栄はまず、
「蒋介石をどう思うか」と聞いた。
交渉の最大のネックが台湾問題で、当時、蒋は中華民国(台湾)総統、中国と敵対している。
周は言下に、意外な答えをした。
「彼は中国人の代表だ」
「しかし、あなたたちは追いかけたり、追いかけられたり、死刑の判決をやり合ったりしてきたではないか」と田中はたたみかけたが、
「蒋介石は世界に誇る中国人の代表の一人だ」と周は再びきっぱり言う。
「なぜか」
「あなたも知っているように、あの第二次世界大戦を通じて、一国の統帥権を連合国に委任しなかったのは蒋介石だけだった」
田中角栄はさらにズケズケと言い、2人は短時間のうちに信頼関係を深めていく。
「周首相の答えを聞いて、懐の深さにびっくりした。ただ者でない。傑物だ」と、田中角栄はのちに述懐した。
翌73年10月の訪ソ。
クレムリンでブレジネフ書記長、コスイギン首相に田中角栄はのっけから切り込んだ。
「日本人はソ連に対して許せないという感情がある。それは昭和20年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破って参戦したからじゃない。日本があっさり無条件降伏した時に、中国政府は大陸にいた数百万人の日本軍兵士や在留邦人を『母のもとに帰れ』と送り返した。ところがソ連は何十万という関東軍の兵士をシベリアに連れていったじゃないか」
ブレジネフが即座に反論した。
「中国は飯を食わせられないから、口減らしのために早く返したんだ」
「何を言うか。多くの我が同胞に酷寒のシベリアで飯もろくろく食わせず、同胞は無念の思いで死んでいったんだ」
田中角栄の野人外交はこんな調子だった。
金権政治家のレッテルを貼られながら、いまだ人気が衰えないのは、国を背負う指導者の気概を、世間が田中角栄に感じ取っているからではないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上は、彼が書いたリーダー論の導入部として載せられています。
それにしても田中角栄という政治家は凄かった。
あの歴史的な外交の場でそんなことを言ったんですね。
今時の首相が、胡錦濤に「蒋介石をどう思うか」と聞けますか?
プーチンに「・・・ソ連は何十万という関東軍の兵士をシベリアに連れていったじゃないか」と文句を言えますか?
今も、そんなことが外交で堂々と言える総理大臣を国民は望んでいるのではないでしょうか。
友人のIさんが某メディアに一文を載せていた。
これが面白いので下記に一部分ですがコピーします。
ああ、私もバカですね、写真を載せては名前が分かりますね。
岩見隆夫さんです。
ディジー・ガレスピーは1940年代半ばにチャーリー・パーカー(Charles Parker Jr.)とともに、ジャズの新しいコンセプト「ビ・バップ」を作り出した一人でした。
パーカーとのコンビでは文字通り火を噴くようなすさまじいアドリブ・プレイを披露し、モダン・ジャズの新しい方向を示しました。
しかしビ・バップ一本やりだったパーカーと活動の方向がまったく同じだったわけではなく、ガレスピーはその時代にビッグ・バンドを率いたり、キューバ音楽を取り入れたりと幅広く活動しました。
スーパー・テクニシャンである一方、時にはコミカルな歌を歌ったりとエンターテイナーの要素も持ち合わせていました。
ビ・バップの創始者の一人として、ジャズ史上の巨人に位置付けられています。
ジャズにラテンのリズムを取り入れたことや、「ナイト・イン・チュニジア」をはじめとしたジャズ・オリジナルの作曲者としても知られています。
しかし、残念ですが、日本で彼の人気は高くないようです。
少なくとも私のまわりでガレスピーがいいという人はみあたりません。
そんなことを書くと実も蓋もないのですが・・・。
アフリカ系アメリカ人のジャズミュージシャン。トランペット奏者でバンドリーダー、コンポーザーであったディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie (本名:ジョン・バークス・ガレスピー John Birks Gillespie)が亡くなったのは1993年1月6日でした。
大工集団 欅の除雪隊を紹介します。
写真の上がコマツの小型ショベル・ドーザー、下がヤンマーの大型除雪機です。
それぞれに得手不得手があり、用途に応じて使い分けています。
一般の家庭では考えられないでしょうが、喫茶 大工集団 欅をオープンさせるためにこの2台が必要なのです。
白山吉野の今朝の天気は雪です。
現在の積雪量は60㎝程でしょうか。
勿論、道路は除雪してあり雪の心配はいりません。
昨夜から今朝までの降雪量は10㎝程度でしたから、除雪も早く済み、定時に喫茶 大工集団 欅をオープンさせることが出来ました。
これが30㎝以上になると除雪に時間がかかり、午前中いっぱい除雪に時間が取られます。
その為に『冬期の雪が降った日のオープンは午後1時5分』となっています。
私は高校時代からジャズを聴き始め、『歌謡曲なんて・・・』とバカにしてきました。
でも、美空ひばりだけは例外でした。
彼女はジャズさえも上手かった。
事実、ジャズのレコードも出しています。
昔、美空ひばりのレコードの印税はただ一人ダントツだったと聞いた事があります。
まあここでも“格”が違っていたのでしょう。
それだけ世間にも認められていた証拠です。
「美空ひばりを聴くためにパラゴンを買った」という人がいます。
一人の歌手のレコードをいい音で聴きたいという理由で、350万円もするスピーカーを買った人がいても納得できるのは、それが美空ひばりだからなのです。
番組を見ていて、久し振りに本物の歌手が歌う歌謡曲を聴いたように思いました。
今時の素人のような歌手とは違う。
彼女が歌っていた曲を作った作詞家もプロです。
だから、詩は韻を踏んでおり、澱みがありません。
また作曲した作曲家もプロです。
今時の曲のような無理をした陰陽がなく、素直に心に入ってきます。
その仕事で食っているのがプロなのではないことに気づきました。
この世界では人に感動を与えられる仕事が出来る人をプロというのでょう。
それにしても、今時のチャラチャラしたポット出の素人のような歌い手や作詞家・作曲家達は美空ひばりを見て・聴いてどう思うのでしょう。
次元の違いを感じるとは思うのですが・・・。
今時の素人が作った曲ばかり聴かされている子供達が可愛そうです。
本物を知らずに育ってゆくのですから。
日本には、これからもポール・ポッツやスーザン・ボイルは出てこないのでしょうね。
こんな素人が受けている世間では本物がいても分からないのですから。
正月から愚痴を書いてしまいました。
それにしても美空ひばりはスバラシイ。
元旦にNHKプレミアムで『よみがえる美空ひばり』という番組を2時間15分放送していました。
今年は彼女の二十三回忌なのだそうです。
番組を見ていて・・・、もう圧巻ですよね。
彼女の歌の物まねは出来ても、誰にも彼女の真似さえも出来ませんよね(?)。
今時の歌手・シンガーとは格が違いますよね。
本年も何卒宜しくお願い致します。
2012年元旦 |
2012年1月3日 |
2012年1月4日 |
1950年代半ばから60年代に最も活躍したベーシスト、ポール・チェンバース。
およそジャズ・ファンならその音を耳にしたことがない人はいないはずです。
それほど多くのアルバムに参加したモダン・ジャズ・ベースの代名詞的存在です。
中でも有名なのは55~63年にかけてのマイルス・デイヴィス・クインテットへの参加です。
音楽性の変遷とともにメンバーが序々に入れ替わっていった中、チェンバースは同グループに9年間も在籍しました。
彼はオーソドックスでありながら、新しいコンセプトにも柔軟に対応できる懐の広さも兼ね備えていたのです。
膨大な数の録音だけでなく、多くの名盤に貢献した、質量ともにトップ・ベーシストでした。
ちなみにジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』に収録されている「ミスターP.C.」のP.C.とはポール・チェンバースのことです。
マイルス・デイヴィス他、ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズ、バド・パウエル、キャノンボール・アダレイといったジャズ・ジャイアンツをはじめとして、レッド・ガーランド、ドナルド・バード、フレディ・ハバード、ジャッキー・マクリーンなど非常に多くのミュージシャンとレコーディングを行い、サイドマンとしての活躍が名高い奏者です。
私はジャズを聴きはじめたとき、初心者向けのガイドブックなどに紹介されている「名盤」と称されるアルバムを中心に購入していたのですが、その中で最も多かったのが「ブルーノート」、「リバーサイド」、「プレスティッジ」の3レーベルでした。
この3レーベルには上記の有名どころがズラリと並んでおり、当然これら3つのレーベルの半ばハウスベーシスト的な役割だったポール・チェンバース参加のアルバムを多く耳にすることになったのです。
彼が多数のレコーディングに参加していた時期はまさにハードバップの百花繚乱の時期でした。
数々の名うてのプレイヤーが様々なスタイルで様々な曲を演奏をしています。
つまりチェンバース参加のアルバムをそろえれば、ブルースからスタンダード、はたまたジャズメン作曲のリフナンバーからバラードまでと、一人のベーシストの様々なアプローチを堪能することが出来るのです。
因みに彼が参加している名盤を書くと
クール・ストラッティン / ソニー・クラーク』 ~Blue Note 1/100~
静かなるケニー / ケニー・ドーハム
ソウル・ステーション / ハンク・モブレー
ケニー・バレル & ジョン・コルトレーン
ミーツ・ザ・リズム・セッション+1 / アート・ペッパー
・・・もうやめましよう、きりがありません。
あっ、そうそう、ソニー・クラーク / ソニー・クラークは忘れてはならない一枚です。
そしてこれらのレコーディングを聴くにつれ、いかにポール・チェンバースというベーシストは全天候型で、実にバランスの取れた堅実なベーシストかということが分かるでしょう。
音楽的に懐が深く、なおかつジャズ・ベースの永遠の教科書。
それが私にとってのポール・チェンバースです。
ポール・チェンバース(Paul Laurence Dunbar Chambers, Jr.)は1969年1月4日に麻薬中毒とアルコール依存症により33歳の若さで亡くなりました。
(ですから昨日書くべきだったのですが、今日の話題が無くて・・・。)
1950年代から1960年代にかけて活躍したジャズのベース奏者でした。
2012年1月5日 |
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